たくさん食べることに対する掛け値なしの喜び…の消失について

今夜は少人数での懇親会。
なぜか自分が場所の選定や予約などの手配をした。先方の希望でビュッフェ形式のレストランとなったのだが、予約の後に小さなトラブルがあった。

参加者の一人が仕事の関係で遅れることになった。そして彼はまず最初にレストランに連絡をして、予約時刻を1時間ほど後にしたのだった。

少人数での集まりで、1時間程度の変更は全く問題がない。本人も気を利かせての行動だろう。
ただ最初に僕へ連絡が欲しかったな、と思う。
幹事としての面子、みたいな話では全くない。お店に予約内容の変更を申し出るということは、僕の名を騙るということだから。大した仕事ではないにせよ、僕の責任で予約をしたのだから、そこはわきまえて欲しかった。

実際に、彼が予約変更の申し出をした直後に、お店から僕に確認の電話がかかってきた。予約サイトで入力した電話番号とは違うし、話っぷりから本人かどうか怪しい…とお店の人は戸惑っていた。確認が取れたから予約時刻の変更はできたけれど、「次からは幹事がWebサイト経由で正しく手続きをしてくださいね」と言われてしまった。

この件は、「遅刻しそうだから率先して予約を変更した参加者」と、その先輩には簡単に伝えた。でも、何が悪いのかぴんと来ないようだった。
企業風土なのか個人の性格なのかはわからない。ただ、言葉を重ねても伝わらないような気はする。長く生きてきて、そういう"人間の性質"みたいなものはわかるようになった。残念なことに、それの多くは善意から発生しやすい。
世の中には善人が多いから当然なのかもしれないけれど、なにしろ善意なので問題にしづらいのだ。

 

それはさておき、料理は普通だった。会食も和やかに進行した。


洋食から中華、和食まで揃ったカジュアルな「食べ放題」は本当に久しぶり。
若い頃ならば鶏の唐揚げの山を見るだけで幸福になれたけれど、今日は全く嬉しくない。1個食べて「うん、脂」って思っただけ。
もちろん、唐揚げもポテトフライもおいしい。
けれど、もはや沢山食べることに対する掛け値なしの喜びは消え去ってしまった。
これが加齢なのか…と会食中に何回も思ったのだった。
テーブルの反対側では同年代の人が「炒飯とハンバーグと春巻を盛り合わせたけれど、だけど…冷静に考えたら…」と、ぶつぶつ言っていた。僕と同じ感慨を抱いているのは、なんとなくわかる。
食欲と直結した喜びが失せたことに対して、悲しくも悔しくもないし、もちろん絶望ともいえない、ただ「ああ、ついに"来た"のだなあ」という感慨。

 

厄介なことに、これが一人あるいは友人との、特定ジャンルでの食べ放題ならば、また話が違う。
いま僕はケーキバイキングに行きたい。
静岡県西部に多いブラジル料理店のビュッフェはとても楽しい。
自宅で「柑橘類の食べ放題」を自作自演しても楽しめるだろう。それらは「祝祭」である。

だけど、ごく平凡な、和洋中からイタリアンまで揃っているビュッフェ・レストランで、仕事の延長で食べる料理は、選り取り見取りの喜びが全く無いのだった。
胃の具合や血糖値や、本当に食べたいもの(しかし、このビュッフェには並んでいないもの)のことを考えてしまうのだった。

 

 

ともあれ、たまにはこういう外食も悪くない。
マスクをしたり手袋をしたりと忙しいし、仕事の延長の食事は肩がこるけれど、それでも総合的には楽しかった。毎週では困ってしまうし、正直なところ1年に1回で十分ではあるけれども、それはそれとして。

 

お題「わたしの仕事場」

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