夕食にピェンローを作った。
妹尾河童氏のエッセイで紹介されていた中国風の鍋料理だ。実のところ中国には存在しないというあたり、妹尾氏らしくておもしろい。
今日は白菜を大量消費するために、このピェンローで夕食を済ませることにしたのだ。
作るのは簡単、材料も少ないし、とてもおいしい。
ただし、レシピと共に必ず書かれているように、この料理は余計なアレンジは禁忌となっている。豆腐や醤油、それから他の野菜を使った途端に、ただの煮込み過ぎた寄せ鍋になってしまうのだ。鍋料理としては"制限"が厳しい。
レシピは検索すればいくらでも出てくるが、概ねこんな感じ。
原典の本は処分してしまったけれど、大きな間違いは無いはずだ。
- 干し椎茸を戻す。
- 戻した椎茸、大量の白菜を食べやすく切る。
- 鍋に骨付き鶏肉、豚バラ肉、白菜、椎茸、水を入れてじっくり煮る*1。
- 別に用意した春雨を入れる。
- 胡麻油を回しかける。
- 食べる時は器にとり、塩と唐辛子粉*2で好きなように調味する。
たったこれだけの料理だが、ほんとうにおいしい。
そして(しつこいようだが)余計なものは一切不要だ。そういう意味では、ほんの少し非日常な、再現度を問われるタイプの料理なのかもしれない。
しかし、こういう品を老いた父と食べるのはとても大変なのだった。
彼にとっては、土鍋に白菜や椎茸や肉が煮えていれば、そこに白葱や豆腐を入れたくなるのが当然なのだった。そして味付けにはポン酢と醤油を使う。それが家で食べる鍋料理であって、ピェンローの"再現度"なんて知ったことではないのだった。
高齢者の多くは、慣習から外れることが本当に難しい。父もまた例外ではなかった。
それでも今日の僕が食べたいのはピェンローである。
大量の白菜*3を、通常の鍋料理では消費できる気がしない。このシンプルなピェンローだからこそ、飽きずに楽しむことができる。
父にもそれを理解してほしい。
そんなわけで、食事の準備段階から「これはピェンローといって…」と何度も説明していた。
かつて妹尾河童氏の本を読んでいた彼も、もう多くのことを忘れてしまった。そして「要は白菜の鍋だろう?」と、なかなか納得してくれない。
仕方がないから、豆腐は冷奴にするなどして、副菜をたくさん用意したのだった。
とても良い夕食ではあった。
しかし、この"制限"の多い鍋料理に対して、どうしてもぴんと来ない父を見て、老いについて考えてしまったのだった。
父はピェンローを気に入って「とてもおいしかった、また作って欲しい、今度は自分が作って友人たちに振る舞いたい」とまで言ってはいたから、結果的には良いチャレンジではあったと思うけれど。
それでも、父に余計な"非日常"を強いてしまったのではないかと考えてしまうし、最近そういうことが増えたなとも思うのだった。