お正月に食べる料理を作っていたら、午後が終わってしまった。
お節料理は一通り用意したが、きちんと作ったのは黒豆と紅白なます、それに煮しめ。
黒豆は数日前からのんびり作っていたから、普段の作り置きと手間などほとんど変わらない。でも、年末の片付けなどと並行して作業していたら、時間がどんどん過ぎていったのだった。
さらに、今日は冬野菜がどっさり届いたのだった。
父の知人達が、「家庭菜園で作りすぎた」「農産物直売所で買いすぎた」といった理由で、我が家に届けてくれるのだ。
白菜や大根、そして里芋。まるで笠地蔵のラストシーンみたいに、ベランダに野菜が積まれていく。和牛や現金を置いていく人はいない。
しかも、今日と明日は父が蕎麦を打つ(彼の趣味だ)。
その蕎麦を届けると、田舎の人達は「ちょっと待ってね」と、白菜や大根やカブをどっさり手渡してくる。中には段ボール箱でくれる人さえいる。生ハムの原木やAmazonギフトカードをくれる人は、いない。
そういった野菜のいくつかも料理したのだった。
紅い大根は(紅白なますとは別に)マリネにしてみたり、カボチャはスープにしたり。お正月に突入すると、作りおきの品々を食べる日が続くから、こういうものは今日明日にできるだけ片付けておきたい。
それにしても、お節料理については迷うことが多かった。
昨年までも両親が準備するところを手伝っていたし、一部の料理は自分が作っていた。
だが、母が用意していた料理を、自分が再現できないのだった。
例えばお煮しめ。
要は筑前煮であり、普段からよく作る料理だ。材料さえ揃えば難しいところはない。
ただし、正月に作るお煮しめだけは、たしか里芋を入れない気がした。
9月に亡くなった母は、そういう小さなこだわりのある人だった。
自分は何十年も食べてきたし、台所で並んで料理もしていたのに、この里芋の有無がわからない。
里芋を入れない理由は覚えている。煮崩れて見た目が悪くなるのを防ぐ、日持ちを良くする、お雑煮でも使うから重複を避ける。
ただ、そういった理由も含めて、母が続けてきた"我が家の流儀"なのか、それとも自分がエッセイか何かで読んだ誰か*1の薀蓄なのかさえ、判然としない。
とりあえず、固めに下茹でしたものを最後に加えてみたけれど、今もそれが”正解”だったのか自身がない。
そういった、小さな疑問や情報不足に出会うたびに、なるほど今年は母がいなくなったのだと思い知らされる。
それで今更しんみりすることもないし、悲しささえも感じない。ただ、おかしなところで手が止まるのだと不思議な感慨を覚えるのだった。
かなり手抜きの正月準備ではあるが、結局のところ嫌いではないのだ、こういう作業が。それは父も同じで、大変だ面倒だと言いながらも、蕎麦を打っては知り合いに配っている。
明日もがんばろう。