先日、仏生山周辺を散策した帰り道で、知り合いに会った。
まだ自分が本州で働いていた時に、仕事のやりとりをしていた人。こちらが業務委託をしていたので発注先という関係なのだが、実際は関連会社に素人が専門的な事をお願いしていたので、自分の中では「お世話になった人」である。実際、迷惑ばかりかけていた。
香川県に住む事になった時には、ちょうどこの人は退職のタイミングだった。すれ違いというか挨拶だけをして、今に至る。
ただし日本一狭い県だから、会うこともあるかもしれないですね、みたいな話はしていた。
実際、今住んでいる高松市は狭い。自分の知り合いといえば一桁、相手が僕を知っていて自分は「会えばわかる」レベルでも100人に満たないだろう。でも、人の集まるところ(例:ショッピングモール)では、偶然の再会は頻繁にある。東京なら奇跡だが、この土地では違う。たぶん「君の名は。」のラストシーンも、高松市だったら違っていただろう。
それはそうと、僕はこの人が苦手だ。
それはメールやテレビ会議の時も、出張で四国に滞在して一緒に仕事をしていた時も、そして昨日も変わらない。
押し付けがましさの力加減というものがあって、それは人それぞれ違って、そしてこの人のそれが、どうにも合わないのだ。ヤンキーとオタクくらいに、基本的な部分で合わない。もちろん笑顔で話はするし、気が合うところもあるのだけれど、たぶん自分も相手も、「こいつと深い話はできないな」と考えている。
苦手だが縁がある、そういう人もいる。
そう、昨日はこの人とお茶をしたのだ。
自転車で家に帰る途中で本屋*1に寄ったら、この元取引先の人がいた。それで、少し雑談をして「せっかくだから」と隣の喫茶店に行くことになったのだ。正確には、「それくらいの時間はあるでしょう、男のくせに失業者なのだから」と言われたのだ。そういうところが苦手なんだぞ、と思ったけれども僕は礼儀正しい人間なので言わなかった。「ははは失礼ですね」とは言ったけれど。
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コーヒーを飲みながら、大した話をしたわけではない。
お互いの近況とか、共通の知人の話をしたら、僕からはもう話すこともない。彼女も自分も仕事から離れたのだから、それも仕方がないだろう。
ただ話はそれで終わらない。
この人は最近、かなり粗雑な、つまりネット経由でのフェミニズムに熱中している、らしい。色々とその種の話を聞かせてくれた*2。Twitterでフォローすべき人や、読むべきブログを教えてもらった。
自分の感想としては、一言に納まる。
一時期、ちょっと興味があって、フェミニズムについて調べた事があった。それなりに本を読み、歴史が描かれた映像作品も観た。共感をする部分もあったし、そうでない部分もあった。
ただ、この思想は、とても危うい。少なくとも、140字の文章では、とんでもない方向に進んでしまう。原子力工学だってナスの漬け方だってTwitterだけでは不十分だけれど、フェミニズムは、その身近さと、ネタになり易さで、賛同であれ批判であれ、トップクラスの不毛さを誇る。不毛なだけでなく危険ですらある。
この人の場合は、男女共に「男社会」へと移行させたいようだった。
それはなんとも乱暴ではないか、過去に何度も陥った過ちではないか、と自分は思うのだが、もちろんそういう歴史はタイムラインだけでは学べない*3。
根の深い問題である。全体的に拗れている。
たぶん、手の空いた時間に感性と読みやすい文章だけで“学ぶ”のは、無理だと思う。その程度では似非フェミニストの壁を突破できない。
もちろん、学ばない人間は女性の権利についてTwitterで発言すべきではない、と言いたい訳ではない。
ただ、素人が山だと思っていたものが実は何かの影だったり、氷山の一角だったり、絵に描いた餅だったりする可能性がとても高い、難しい思想であり学問なのだ。
それは頭の隅に置いておくべきだろう。
ところでTwitter、ここ数年で「普通の人達」がずいぶん増えた。
ネットにどっぷり、ではない一般の人達がタイムラインを賑わせている。
するとやはり、普通の社会が反映される。
我が国の場合は、一昔前のアメブロっぽさが生じてくる。
あの、やたらと改行が多くて、情報量が少なく、句読点や記号の使い方が滅茶苦茶な*4素人と芸能人御用達の無料ブログサービス。誰かが「マイルドヤンキーの出力先」と書いていたが、あれは本当に日本社会の鏡みたいな場所だった。
つまり、
- 男らしさ:強気で断定的で、仲間と家族に囲まれている
- 女らしさ:感情的で短絡的なくらいが良い
という規範だ。
これはもう、自分達が社会に育てられていく過程で、どうしようもなく刷り込まれている。絵本から始まり、デートのマニュアル本に至るまで、成人まで延々と続く見えないガイドラインのようなものだ。
もちろん成長とともに「それだけではないよね」と、個人差こそあれど学ぶ。「それだけじゃ駄目だよね」と考える人*5も多いだろう。
ただ、圧倒的なマジョリティーは、この規範を疑わない、疑えない。そういう人達が、コンピューターとネットワーク技術が手軽になった時に、アメブロに出会ったのだ。
そして今、彼ら彼女らが、Twitterに自分の意見を書き込むようになった。するとやはり、男は「他人を傷つけるくらいの物言いこそ、社会を正しく語る」と考え、女は「自分はこう感じたから、その想いは正しい」と考え、そして140文字以内で書き込む。
残念ながらTwitterは、アメブロよりも制限が多い。140文字というのは、文章力が問われる。
そして何より、赤の他人に意見される機会も多い。なにしろソーシャルネットワークサービスなので、社交を求められるのだ。
それはそれで賑やかな世界ではあるのだけれど*6、物事を知るには難しい場所になっているし、それは今後、もっと顕著になるだろう。
上記の規範は、テレビのバラエティ番組でかなりあからさまに描かれる。ひな壇があるタイプの番組では、男は相手を“斬る”か“弄る”かして、女は口に手を当てて泣きそうになるか、にっこり笑うだけ。時々、「こわーい」とか「かわいそうー」と言えばいい。
お笑い芸人は規範の応用が芸となっている(つまり、強めたりずらしたりする技巧を求められる)が、似たようなものだ。
そして昨今、多くの人が、バラエティ番組のタレントになりたがっているように、僕には見える。タレントのように振る舞わなければならない、と考える若い人も多い気がする。
年寄りとしては、日々の生活を通じて、そうではない、と語り続けたい所存である。
話が逸れた。
つまりこの知人と、彼女が話すにわか仕立てのフェミニズムは、いかにも今の時代を映していて、なるほどこれが時代の空気というやつか、と変な感慨を抱いたのだった。
ふとあの懐かしいmixiのことを思い出したが、それはまた別の機会に。