どういうわけか、2010年代の日本には「ごちそうさま」をきちんと言えることを以て「育ちが良い」と認める人達が一定数いる。僕の実感では、10年前よりも増えているし、きっとこれからも増えるだろう。
それだけで「育ち」を判定してしまう単純さが苦手なのだが、ともあれ一理はあるだろう。しかし一理だけで片が付くほど我々の世界は単純ではないのだ、残念ながら。
そして、これもまた残念に思うのだが、この説を強く掲げる人達というのは、かなりの高確率で、「ごちそうさま」を唱えるだけ、なのだ。
つまり、ファストフード店でも、居酒屋でも、きちんとしたお店でも、会食の場でも、さらに言うと社員食堂であっても、とにかく同じ調子で「ごちそーさまでしたー」と、声に出すだけ。ただの習慣じゃないか、と僕は思ってしまう。
頭を使わない謝意なんて、そんなものは形式以下だ。本当に育ちが良い人は、場と状況と質に応じて、言葉や仕草をきちんと選び、相手に伝える。
ちなみに僕が「ごちそーさまでしたー」と単に“唱える”だけの場面といえば、「ラーメン道とは云々」みたいなポエムが壁に殴り書きされているラーメン専門店だけだ。ああいう店は、誰もがオートマティックに「声を出す」ことも含めて、店のかたちを成しているのだと考える。
ああなるほど、とここまで書いていて合点した。
この「ごちそーさまー」の唱和、これはそのまま、中学高校の運動部の「声出し」なのだ。
最初は意味があったのかもしれないし、実際は声を出せば何かしらの効果があるのかもしれない、でも現状は「みんなと同じに、声を出すこと」が目的になっている、野球部の妙な掛け声や、バレー部の金切り声。出さない1年生は不真面目だと見做される。
あれの大人版が、上に書いた「ごちそうさま原理主義」なのだ。大きな声で、強い人間が定めた形式に則ればそれで良い。
先輩に「ちーっす」と挨拶するようなもの。別に尊敬を示すわけではない。
雑な規範だな、と思う。
礼法には数多くの規範、つまり「型」や「形式」があるけれど、「理由はわからなくていい。とにかくやる!」は一切無い。そしてその制約、型枠があるからこそ僕達は自身の思い込みや慣れや“常識”を脱して、相手へ向き合うことができる。
縁があって茶道のお稽古に参加することがあって、当然そこでは決まり事が山盛りで、でも先生はきちんとその理由を説明してくれるし、その説明は“茶道世界(の中の裏千家ワールド)”でしっかりと整合性がとれている。
この「ごちそうさま原理主義」は誰のためのものか、を考えるとなんだか怖くなってくる。以前、家電量販店に、ただ語尾を「〜させていただきます」に統一するだけの似非敬語を扱うスタッフがいた。あの違和感。ドラマシリーズの「世にも奇妙な物語」での定番、「少しだけ狂った社会」に迷い込んだみたいな感じだった。
ものを考えない人間は、怖い。
常識だから、という理由でものを考えない人間が他人を傷つけるのを何度も見てきた。
そこまでいかなくとも、基本的に世界は広く、想像を超えているわけで、つまりは考え続けないとすぐに見失ってしまう。常識ではなく、世界のかたちから。