映画「かぐや姫の物語」を観た。


午前中は、友人と映画館へ。アニメ映画「かぐや姫の物語」を鑑賞した。
予告編は何度も見ていたけれど、特に映画館で観たいとは思っていなかった。しかし先日、うっかりレビューサイトを見たところ、その毀誉褒貶の激しさが気になってしまった。たまにこういう、博打じみた映画鑑賞をしたくなる。

といっても、レビューはやっぱり素人の評論で、特に酷評している人達は「何か勘違いをしているのではないだろうか?」と思わせる、言い方は悪いが“質の悪い”文章だった。少なくない人達が、原作の「竹取物語」を知らずに、童話の「かぐや姫」を長編映画化したものと思っているようで驚いた。
飲食店から書籍まで、素人のレビューは(特に低評価は)、あまり当てにならない。作る側の労力や配慮に比べて、貶す側は格段に楽なのだ。テロのようなもので、この非対称性はお互いに不幸だと思う。第三者である僕達は、話半分に付き合えば良いだけだが、時間は消費する。

ともあれ、映画はきちんと楽しめた。
墨と筆のようなタッチの線画に、水彩画風の色合い。それが背景にも動画にも徹底されている。動く絵巻物みたいで、これはこれで素敵だと思う。「お金がかかっているなあ」と感心させられる。
ストーリーは、基本的なあらすじは、古典の「竹取物語」の通り。1人の登場人物が追加されていて、その人物は主人公に深く関わる。
とはいえ、なにしろ「竹取物語」なので、最後まで観ても最近の映画によくあるカタルシス的な盛り上がりは(少しはあるけれど)現代のドラマのようにはやって来ない。世界のシステムに抗う、あるいは改変するような種類の話では無いのだ。その辺りが、前述の“酷評”に繋がったのではないか、と僕は思う。基礎知識として、Wikipediaでも何でもいいから、古典の「竹取物語」のアウトラインだけでも知っておくと、戸惑わない気がする。

元々が「胸糞悪い」要素を含むお話なのだから、スタッフロールを眺めながら多少のやり切れなさを感じても仕方がない。そして自分は、そういう種類の悲しさは、特に気にしない。特別に感動もしないし、それでいいのかと怒ることもない。

それにしても演出過剰な映画だった。説明したいところの多くを、動く画で表そうとする。こういっては失礼だが「年寄り臭い」かもしれない。それからキャラクターデザインが、頭身から顔形までバラバラ過ぎて、どうにも馴染まない(「ミニパト」っぽい人から、星飛雄馬風の顔まで同じ画面に並ぶ)。僕はアニメに出てくる「美術室の石膏像」が、アニメ顔をしていて欲しいと思ってしまう質なのだ。

こうして書き綴っていると、あまり楽しめていないように思えてくるけれど、実際は面白く鑑賞できた。映画館で一気に(CMやカットが無く)観られて良かったとも思える。
でも、こういう映画が、例えば夏休みの午前中や、土曜日の夕方や深夜にTV放映されていたら、きっと最後まで観てしまう。子供だったら、アニメマニアの方向にかちりと精神的なラチェットが回るかもしれない。そういう、妙な魅力がある作品。
友達も満足していた。泣いたり感動したりは無かったけれども、別にそれだけが映画の魅力では無いよね、という感想。

あまり関係が無いけれど、ラストシーン直前で、この映像を思い出した。

とても素敵な漫画。耽美さと軽さが絶妙なバランス。

宝石の国(1) (アフタヌーンKC)






http://instagram.com/p/hNJoW-GMcY/

映画の話をしながらコーヒーを飲み、友人と別れる。

僕は風邪気味なので、元気を注入するために、大盛りのラーメンで有名な「らーめんブッチャー」に行った。東京で流行したという「ラーメン二郎」の真似のような店。ごく稀に、食べたくなる。
「野菜を多めに。麺は少なめ、脂も少なめ、ニンニク抜き」と注文する。「野菜はかなり多いですけど」と確認される。
そして出てきたラーメンは、全体の7割以上がモヤシだった。
大丈夫かな、と心配になる。でもほとんどが茹でただけのモヤシなので、その薄味が好きなので黙々と食べ進んでいったら特に問題なく残さず食べ終えた。
価格が上がってもいいから「麺抜き」を注文できたら、とても嬉しい。外食で「野菜をたっぷり食べよう」と思うと、なかなか思うようにいかない。特に安い食事の時は。
夕食もまた、モヤシを大量に使った鍋料理だった。しかしモヤシならば飽きない。これがパプリカ(あるいはカボチャ)だったら、たぶん夕食を残しただろう。



t_ka:diaryは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。