映画館に行き、列に並び、予告編を。

仕事を半日で終わらせて、午後は私用のため帰宅。夕方には用事が済み、そのまま映画館へ行ってきた。

事前にWebサイトで購入し、画面に表示したQRコードを読み込ませればチケットレスで入場できる仕組みのシネマコンプレックスなのだが、その事前購入者向けゲートが何やら騒がしい。
スマートフォンのモニターにQRコードを表示させ、なぜか背面の(おそらくおサイフケータイ部分を)読み取り機にかざしている青年が道を塞いでいた。お連れの方(女性)も、その勘違いをよくわかっていない様子。店員さんは別の作品のモギリ(?)に忙しい。
列が止まってしまったので仕方なく見ていると、彼らは大きな声で店員を呼びはじめた。怒声、といっていいと思う。「失敬、ちょっと助けて欲しいのだが」みたいな台詞ではなくて、「なんだこれ駄目じゃねえか使えねえ映画館だなコラ」みたいな言葉を吐いている。
使えないのは君のデジタルデバイス運用スキルだよ、と思ったけれど言わない。
店員さん達が集まって説明するが、「どうして駅やコンビニみたいにぴぴっとできねえんだ馬鹿」とか言い出している。

待っていても入れそうにないから、すいませーんと隣から手を伸ばして、画面を読み取り機にかざして、ぴぴっと手続きを済ませて入場した。
その後のことは知らない。僕とその後の何人かが“お手本”となって、上手に、的確に、そして紳士的にモニター側を読み取り機にかざぜるようになって欲しい、と願うのみ。
しかし状況は、というより彼と彼女の心理状態は、どうにも問題解決を求めてはいないようだったから、その後も店員さん達の苦労が続いた可能性はある。まさか映画を観るのを諦めたわけじゃない、とは思うのだけれど。

 

 


今日は予告編が、めちゃくちゃ長かった。
以前もこのシネコンでは予告編とローカルCMが充実し過ぎていてうんざりしたため、今回は時計できちんと計測してみた。こういう時に、腕時計は役に立つ。スマホでは画面が明るくなってしまう。

なんと17分も、本編開始前にスクリーンに映像が流れていた。
僕は予告編は大好き。でも、あれは本質的には宣伝であり、あまりにその量があると、なんだか嫌になってくる。「予告編割引」が欲しいとまでは思わないけれど、前述のカップルならば、怒鳴っていてもおかしくない。

今回は、静岡県でロケが行われ、何かしらのタイアップ企画が進行中の作品をピックアップしていたせいで、このように長い“本編前の待ち時間”となった様子。困ったことに、その作品の冒頭5分だったか、それくらいの特別上映も実施された。冒頭映像と、主演キャストからのメッセージ、ロケ中の映像、そこまでまとめて見せられたら、少し興味があった程度の人は、逆にもう観ない気もするのだが。なるほど、こういう作品か、なるほどわかった、と。
ついでに言うと、その後に別の作品の予告編があって、そこにはお笑い芸人の「応援メッセージ」と称する面白トークがねじ込まれていた。僕にはまるで面白くない。スクリーンに映る芸人さん達ほど楽しそうにしている人は、僕の観測範囲にはいなかったと思う。

 

シネコンそれぞれで工夫をこらした上映時の注意喚起映像、あれだってもう少してきぱきと済ませて欲しいものだ。
ミニシアターだと、アナウンス放送だけ、加えてスクリーンには防災上の(法令で決まっているのかもしれない)情報が映るだけ、という場合も多い。静岡のミニシアター「シネギャラリー」では、稀に館主が舞台前で「アナウンスにもありましたが、電話は切ってください」とわざわざ説明する事もある。生身の人間が伝えるわけだから、なるほどシリアスな問題なのだな、と再認識させられる。あれはほど良い緊張感が生じるから好きだ。その後に添える「ではお楽しみください。…良い作品ですよ」とか、一言が嬉しい。

 

しかし、本当に残念だ。予告編の時間が“待ち時間”に思えてしまったなんて、損失以外の何物でもない。
静岡県中部在住者としては、もう何年も変わらないローカルCMは、いつだって時間の無駄に思えるのだけれど。特に焼肉屋!そろそろ変えて欲しいものだ。

映画の内容については、後日書くかもしれない。書かないかもしれない。とにかく今日はもう寝る。その前に、お風呂に入ります。

 

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

打ちのめされるようなすごい本 (文春文庫)

 
旅行者の朝食 (文春文庫)

旅行者の朝食 (文春文庫)

 

 

魚の目、鶏の足

わしらは怪しい探険隊 (角川文庫)

昼休みに「どうしても食べられないものと、想像力」についての話題となった。
簡単に書くと、いつも一緒に社員食堂で集まるメンバーの1人が、こういう事を言い出したのだ。

  1. 自分は鶏肉が食べられない。なぜならば、鶏の足や皮を連想するので。
  2. 自分は尾頭付きの魚も駄目だ。目がこちらを見ているようで怖い。
  3. このように、自分は想像力が豊かなのだ。子供の頃からよく褒められる。

なかなか強烈な意見だ。
そして、「それって想像力が貧しいのでは?」とも思う。
なにしろ仕事中の昼休みだから、さすがにそのまま言葉にはできない。かなりオブラートに包んだ、質問という形式で意思表明する。「牛や豚の肉は好きだよね?」とか。

僕はわりと平気だけれど、鳥類の足というのは、確かに気持ち悪いと思う人がいて当然だろう。鶏の皮だって、ぶつぶつ羽の跡があるし、なにやら白っぽい色合いと、ぬるっとした脂の感触は嫌かもしれない(例えば夜道で飛んできたら、逃げる)。そして鶏肉は、どうしてもそういう構造を引き継いだ形にならざるを得ない。ブロックから切りだす、というわけにはいかないサイズなのだ。

魚の目玉だって、「死んだ魚の目」なんて表現があるくらいだから、その嫌がる気持ちも想像できる。人とはやや違う、しかし全体的には同じ構造、というのもその嫌な感じを底支えしている。
目があれば脳もあるし、丸ごと死体を眺める、と考えたら、確かに切り身よりは強く何かを感じる。

でもやっぱり、だから「嫌」というのは、想像力の欠如だ。
想像というのは、そこから先まで考え、他の様々な物事との繋がりを踏まえて組み立てていく、もっと立体的なものだと考える。
例えば牛はどうか、植物はどうか、発酵食品は?
あれはいいけれどこれは駄目、の境界を悩まないのならば、厳しい言い方をすればそれは「子供の想像力」だ。牛や豚の目を想像できない人は、「人よりも想像力が優れている」なんて自称してはいけない。「そう思った」で済むのなら大脳は半分でいい。

言い換えると、「素直にそう思った」が正義な時代はもう(おそらく義務教育が修了した頃には)終わっているのだ。素直は善い特質だが、だから素直に発した言葉が善いかというと、また別の話となってしまう。

まあしかし、この人は見ているだけで発見が多い。
「学生時代の実習で、ダウン症の子の面倒を見た。彼らは例外なく、ピュアで、嘘が無い」とか「自分は味覚が鋭敏すぎる。だから、何にでもマヨネーズをかけてしまう」と語っている。初めは高度な冗談かと思った。
この人が“若者”であった時代には、「ピュアで無知で大人が眉をひそめるような存在こそ、実は真実を突く存在なのだ」というフィクションがもてはやされた。そう、あの懐かしい、渋谷のギャルやキャバクラ接客スタッフが持ち上げられた時代だ。考えるよりもキモチ!の時代。
そういえば「世界の中心で、愛をさけぶ」はあの時代に「永遠に語り継がれるマスターピース」と言われていたが、今あれを何度も観返す人はいるのだろうか。「KAGEROU」は何だったのだ。

多くの元若者が「あの“馬鹿になれ!知識なんて無駄だ”は、我々若者に向けたセールストークだった」と早い内に気付き、今に至る(しかし教養の軽視は強く根付いた)。でも、気持ちの良い甘言である事は確かであり、否定するには痛みを伴う。だからこそ、この人は今後もその路線で行くのだろう。
逆に茨の道ではないのかな、と僕などは思ってしまうし、実際に周囲とは軋轢というかばたばたを巻き起こしてもいるのだが、とにかく他人の人生である。

そして、傍で眺めている限りそれはそれで好ましいと思う。
時代に染まってしまった人、いつまでも若者であると勘違いしている人は、良し悪しとは別の、目を惹くものがある。
残念なことに、深い話、真剣な話をすると、ずいぶん言葉が軽い。でも、ランチタイムに話すだけならば、実に面白い。そういう人だって、もちろん大切な友人だ。

 

 

 

ピーナツバター作戦 (Seishinsha SF Series)

ピーナツバター作戦 (Seishinsha SF Series)

 

 

 

ツナなべ

びっくり! マグロ大百科 (世の中への扉)

フレークじゃなくて、どかっと塊のマグロが入った缶詰が食料庫の奥にあった。鯖水煮缶みたいなサイズと縦横比。親戚が勤め先の缶詰工場から貰ってきた、とのこと。試作品かつ非売品ということで、缶詰なのに賞味期限は保証せず、できるだけ早く開けて欲しいそうだ。できればガラスの器に移し、今日明日で食べてくれ、と。

そこまで神経質になるものでもないだろうに、とは思う。中身は洩れていないし、外観上も問題無い。正規の手続きで社外に持ち出したものであって、こっそり横流ししている訳じゃないから、万が一にお腹を壊しても、缶詰会社にペナルティを求める人はいないだろう。
しかしまあ、それは「珍しいものを貰って喜んでいる僕」の理屈である。僕が許しても、社会が許さない気がする。社会って何だ、などと話を広げると鍋の話にならないから、とりあえず以下にレシピを書く。

 

  1. 大根を切る。今回はピーラーで薄く削いだ。
  2. 青ネギは庭から摘んでくる。たくさん使う。
  3. 生姜は針のように細く、そしてたくさん。
  4. 鍋にお湯を投入。
  5. さらに酒と塩を投入。
  6. ツナを1缶投入。
  7. 醤油を少し、隠し味にオイスターソース。
  8. 大根投入。
  9. 大根に火が通ったら、青ネギを入れて完成。生姜も乗せる。

 

豆腐その他の具材が足りない。
とりあえず「5種のお豆サラダパック」で代用。大豆、黒豆、青えんどう、ひよこ豆金時豆が土鍋に浮かんだり、沈んだりする。ひとりで食べると、豆だけで炭水化物はもう十分です、って気持ちになるから、ご飯は不要となる。

ツナ缶のツナは、格別に美味しいものではないから好きだ。もそもそというかきしきしというか、“凝固した蛋白質の筋”だけの味と食感。これが鍋料理になっても、まるで変わらないのだから凄い。今回は塊ということで、さらにその存在感が際立つ。
美味しく食べるには、もっと強い味付けにするか、食材として活用する(例えばコロッケに加えるとか)などの工夫がいるだろう。でも、ツナ缶はそのツナ缶らしさを楽しみたい。

 

 

そういえば、今日のツナ缶は、少しだけだが血合いが入っていた。それだけで、どこか猫缶のオーラが生じる。食味に影響が無く、これはこれで珍しくて良い。

缶詰工場が多い土地に親戚が何人か住んでいるため、たまにこういうお裾分けがある。フルーツゼリー、エリンギ、それから厚揚げの缶詰を貰った記憶がある。
ゼリーは今も売っているのだろうか。SSKの「プリンゼ」は好物だった。Amazonで検索したところ「もしかして:プリンス」と提案されたが、プリンスは関係無い。

それにしても脂肪の少ない夕食だった。でもアスリートっぽさは皆無。きちんと美味しい、ひとりごはんでした。

 

 

由比缶詰所 熟成まぐろオリーブ油漬 フレークEOヒラ3号缶(90g)×10缶セット

ツナ缶では、これが好き。スーパーやデパートでは贈答品エリアに置かれていることが多く、なかなか買う機会が無い。安売りもされない。でも確実に美味しい。昔は工場まで買いに行っていた。缶詰所、という響きも素敵だ。

 

 

 

 

 

新しい喫茶店「喫茶の坩堝」

藤枝市蓮華寺池公園にほど近い場所に、新しい喫茶店ができた。書店の隣にあった居酒屋の建物が、いつの間にか(たぶん1月の初旬には)喫茶店となっていた。若い人が始めたであろう、「昭和レトロ」な雰囲気を演出するカフェっぽい喫茶。

僕はまあ、こういうレトロ感が苦手で(心の中で“似非レトロ”と呼んでいる)、特にまだ店が“こなれて”いない時期に行っても粗ばかり目立って困ってしまうこともあり、あまり積極的に訪れる気分にはなれない。よく通る道からちょっと寄り道すればあっという間の場所なのに、なんとなく避けていた。

https://www.instagram.com/p/BQHo63kljUw/

 

今日は雨でいくつかの用事を断念したこともあり、じゃあ試してみようかと(書店のついでに)立ち寄ってみた。

古本が少し並び、古い映画のポスターと、懐かしい感じの古い椅子や調度が置かれた店内。雑多でテイストは統一されていないけれど、いかにも出来たてのお店らしい若々しさがある。
メニューには「固めのプリン」とかナポリタンとか、なにやら昭和っぽさを演出したようなものもあって、わかりやすい。

コーヒーは最近よくある、苦み酸味を抑えた飲みやすさ最優先の味。美味しいと思う。
一緒に注文したガトーショコラも良かった。ビターなチョコレートが強く感じられる、中身が柔らかく外はかりっとした、正統派。オレンジピールも程よい感じ。

周りのお客さんは、オムライスやドライカレーだろうか、レトロカフェらしいメニューを楽しんでいた。

外は雨ということもあり、なんとなく長居してしまう。今日はとても空いていた。


これからイベントもやるだろう。常連さんも沢山できそう。やりたい事がたくさんありそうな雰囲気が伝わってくる。
大きな公園があるのに喫茶する場所が少ない地域であり(スターバックス・コーヒーはあるけれど、混んでいるし、常に行きたい訳ではない)、こういう店はとにかく頑張って欲しいと思う。
例え今は店員さんが通るたびにぎしぎし揺れる床とテーブルも、いつか修繕するだろう。あえて書かないけれど、そういう細かい“粗”は、どうしても隠せない。半年経って、まだ直っていなかったら、その時は幻滅する。居心地の良くない手作り感なんてものは、レトロ喫茶とは関係の無い要素だから。

それにしても、ぱぱっと情報が出てこない店だ。
Facebookページなら1回のクリックで到達するけれど、Googleの検索でまず見つかるのがTwitterInstagramのタグでまとまったページ。店舗情報をさっと見たい時に困る。スタッフの日常も良いが、住所とか開店日のほうが、まずは知りたい。
こういう店、最近は増えた。内向きの情報開示というのか、少なくともブログで紹介するには不便である。

 

喫茶の坩堝

静岡県 藤枝市 五十海 1-4-7

定休日:第1・3水曜日と木曜日

営業時間:10:30〜18:30

 

 

picbear.com

映画と昼寝と紅葉饅頭(のてんぷら)

 

映画を観た。
スケジュール上は、3本を連続して鑑賞できる筈だったのだが、最初の「虐殺器官」を観てから移動中に、なんだか今日はもういいや、って気分になってしまい、そのまま帰宅。



映画の感想は後日。満足しました、とだけ今は書く。

 

https://www.instagram.com/p/BQFB5uBFbPU/

 

映画館(というかシネコン)を出たあとに、友人と「たまには無意味にジャンクフードを食べよう」と入ったラーメン屋さんが、いわゆるラーメン二郎風の店で、しかも「野菜を少し多め」にしたら本当に山盛りで、ぐったり疲れてしまった、というのも帰宅の理由だろう。
本当に量が多かったし、おまけに煮卵がしょっぱかった。
死海にでも漬けたんじゃないか、というくらいに塩辛い煮卵だった。中華粥に少しずつ入れて食べたい味。どう考えても、脂が多くて濃いスープに浮かべるものではない。

 

白暮のクロニクル 10 (ビッグコミックス)

白暮のクロニクル 10 (ビッグコミックス)

 

 

帰宅して、昼寝した。
明日の予定を考え、今日は昼寝をして英気を養うことにしたのだ。たぶん寝不足だったのだろう、夕食の直前までぐっすり寝た。

夕食の際に、紅葉饅頭のてんぷら、というものを食べた。
父の知り合いがイベント用に試作したのだという。彼らは蕎麦打ちサークルに参加していて、よくお祭りでは手打ち蕎麦と揚げたての天ぷらを提供している。その天ぷら鍋でもう1品、ということだろうか。
広島では当たり前の食べ方なのかもしれない。
不味くは無いし、僕は好きな味だ(揚げ餡巻きを思い出す)。でも、栄養士には怒られそうな組み合わせではある。
母は「中にあんこが入ってる!」と騒いでいたが、まあ当たり前である。
市販の紅葉饅頭を揚げて、それを(ほぼボランティアの価格帯で)売って、利益が出るのかという疑問もある。
ともあれ、珍しいものを食べた。

 

 

 

そして、先ほどまで、うつらうつらと寝てしまっていた。
今から本格的に寝る。その前にいくつか、映画のレビューを「Filmarks」に書きます。虐殺器官については、後日。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 
虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 
虐殺器官 アートワークス

虐殺器官 アートワークス

 

 

ベーコンと豆

訳あり 代々木フードマート ベーコン 厚切り スライス 1kg×5パック 5kg 業務用 切り落とし

昨月だったか、ベーコンを加熱せずに食べる、という話を聞いた。僕の生活圏では、遭遇したことがない。少なくとも自分は、ベーコンは加熱して食べる。

たぶんそのままでも食べられるのだとは思う。同じ豚肉の塩蔵品であるハムとは、使う部位が違う程度だろうから。燻製したから生は無理、なんて事は無いだろう。

ではなぜ食べないのか。たぶんベーコンは、焼いたら美味しいから、なのだと推測する。それも、ものすごーく美味しいから、火を通すという発想が無いのだ。

でも物は試しと、今日食べてみた。
もともと、冷たい脂は好きなほうだ。だから、ベーコンの脂も美味しくいただけた。赤身肉の部分など、ほぼハムである。
ハムは薄切りで、ぺろっとなってしまうけれど、ベーコンはブロック状だから、つまみやすい。フォークで突いて口に運ぶのがとても簡単。

本格的な、豚肉と岩塩と…みたいな品ではなくて、原材料欄に水飴や蛋白加水分解物などが延々と並ぶ、普及品。そこを眺めている分には、本当にハムと変わりない。つまり、衛生と防疫の観点からすれば、確かに火を通す必要は無さそうだ。

では今後もベーコンは生で食べるのか、といわれると、どうだろう。選択肢が増えたことは確かであり、試してみたい料理法もぼんやりと思いついた。でも焼いたものの美味しさは、また別のものとして特別なのだ。どちらか選べ、と言われたら、たぶん焼いたほうを選択する。

 

 

 

素煎り 大豆 1kg 製造直売 無添加

さて、今日は節分ということで豆を食べたり投げたりした(甥姪が遊びに来ていた)。
この福豆、つまり炒った大豆は、必ず余る。皆で食べきって、まだ足りない、という状況はまず無い。

その余った豆は、とりあえず浸し豆にした。いつかこの日記でも書いたと思う。濃縮めんつゆ、醤油、酢、砂糖、水、みりん、酒、なんでもいいから、濃いめの漬け汁(酢は少なめ)を作って、そこに豆を漬けて、冷蔵庫に入れて翌日から数日の間に食べる。美味しい箸休めが出来上がる。
醤油が多めだと長持ちするし、少し輪切りの唐辛子を入れてもいい。
醤油だけ、あるいはめんつゆを薄めずに使うと、「醤油や味噌のご先祖様」っぽい何かが出来上がる。これは、炒め物などに調味料として使用すると便利。

今年はピクルスにもしてみた。
焼いた大豆のピクルス、というものを大昔に翻訳小説で知ったのだが、まだ試していなかった。
炒り豆を、貰い物のピクルス用にミックスされた酢に入れて、庭のローリエを少しだけ投入。あとは待つだけ。
浸し豆の時は、酢が多いと、「なんとなく健康食品」になってしまう。ピクルス液はずいぶん甘いが、どうなるのだろうか。

我が家は、というか僕は、この炒り豆が好きで、1年を通して購入している。ちょうど行動範囲に落花生と豆菓子の専門店があって、簡単に手に入るのだ。
豆屋の人が言うには「節分の時期に売るものは、程度の良く無いものがほとんどだ。同じ価格でも、味がぜんぜん違う」とのこと。確かにそういう感じはする。特に料理に使うと差がわかる。

明日は炊き込みご飯にする。これは、米の上に炒り豆を適当に入れて、栗ご飯の味付けで炊くだけ。とても簡単。鄙びた、という表現がぴったりの味。豆を戻したりする手間が無いのが有難い。

他にも、スープの実などにも使う。友人宅では、青菜の胡麻和えに加えていた。
なかなか使い勝手の良い食材である。

 

 

ラジオ体操という刷り込み

仕事の都合で、いつもより遅く出社。その代わりに遅い退社となるわけだが、朝がゆっくりなだけで、とても気が楽だ。そして、ほんの少しの時間差で、見える風景が違ってくるのも面白い。

半分が農地、残りが倉庫や中小の工場、という地帯を走っている時が、いわゆる「始業時刻」の少し前だった。多くの工場、それに事務所では、人が外に出て、ラジオ体操をしている。
道路が高台を走るため、よく観察できる。

 

みんな本当にラジオ体操が好きだ。
たぶん日本人は、ラジオ体操ならば業務時間外であっても、健康増進には誤差程度の効果しか無いと思っていても、それでも身体を動かしはじめる。
そういう風に、学校生活を経て、すり込まれてしまっている。
では自分の意思と発想で、朝の数分間を軽いフィットネスやエクササイズ、ストレッチで過ごせ、と言われたらどうだろう。多くの人が続けられないのではないか。
これこそが国民性だと思う。

 

だから良い、という話ではない。
僕はそういう、自動的に身体が動いてしまうようなもの、理屈ではなく習慣になっているもの、は意識して排除していくのが理性的な大人だと思っている。
「だって、たかがラジオ体操じゃないか」という常識は、いざ冷静にあの風景を眺めてみると、気持ち悪くて吹っ飛んでしまう。色合いと音声を変えたら、遠くて近い独裁国家の妙な国民運動と言われても気付かない。朝、皆でぞろぞろ並んで、ピアノの伴奏と掛け声に合わせて、決まった動作をする、それが会社から半ば強要されているのだ。せめて、効果効能の向上を求め、定期的にアップデートはして欲しい。医学も生理学もこれだけ進歩したのに、ラジオ体操は“既に完成されていました”というのは、さすがに嘘だろう。

 

便利な「とりくみ」ツールであることは否定しない。あれは職場の「健康向上活動」のリストを1項目増やすためには便利なのだ。多くの人が、ちょっと面倒だと思いながらも、前述のように身体を動かす。

ただ思う。普段の生活において、他の局面であんな風にイチニサンシと全員同じ動作をさせられる事は、無い。あれば話題にも問題にもなる。

 

だからラジオ体操が駄目だ、という話ではない。ラジオ体操、多いに結構。僕は嫌いだが、それはまた、別の話。
ただ、僕達の「普通」には、その普通さと両立する「奇妙」や「変」や「道理の合わなさ」が存在する。
当たり前だから、皆がやっているから、が理由にならない側面は、常に意識していきたいものだと、朝の通勤時間に思ったのでした。

 

素晴らしきラジオ体操 (草思社文庫)
 

 

 

 

口内炎の薬

数日前から、口内炎を患っている。
下唇の右側奥と、舌の先。
特に舌のほうが、何をするにも不便だ。滑舌が悪くなり、食事の際には痛み、もちろん食事の時以外にも不意にその存在を主張する。それから、寝ていると乾燥するのか、明け方に微睡んでいる時に気になってしまい、結果として睡眠を妨げている。

これはたまらぬ、と職場の人達に対処法を聞いてまわる。
チョコラBB」から「とにかく無視」まで、意見がばらつく。無難なところでビタミン剤と、薬だろう。
我が家ではトマトが効くとされているが、なんとなく精神論というか、苦労こそ人を強くする的な教訓じみたものを感じてしまって、好きになれない。わざわざ酸っぱいものをぶつける辺り、妙な説得力があり、逆に嫌になる。良薬口に苦し、ならば糖衣に包めばいいじゃないか。
ちなみに、「Yahoo!」の質問サイトを検索したところ、4割がお説教だった(あなたの食生活が悪いのですよ!)。時間の無駄だったと思う。

 

 

というわけで、帰宅時にドラッグストアへ立ち寄る。
昔は「ケナログ」が定番だった。今は塗り薬から飲み薬まで多種多様。パッチタイプは、自然に剥がれるからその後は気にするな、というものもあれば、自然に溶けるものまであって、目移りしてしまう。価格差は数百円だったか。1000円前後だった。

森下仁丹製薬の「メディケア」シリーズに属する、「デンタルクリーム」なる商品を購入。鎮痛して消炎して殺菌する、とのこと。

 

【第2類医薬品】デンタルクリーム 5g

【第2類医薬品】デンタルクリーム 5g

 

 

塗ってみた。
塗った直後から効いてくるのがわかる。痛みがほとんど無くなった。薬効というよりも、口内炎の潰瘍部分を覆ったことがその理由だとは思うが(市販薬で、ここまで強力な鎮痛成分があるのだろうか…)とにかく有難い限りである。
塗り薬には珍しい即効性。
僅かに感じるメントールは炎症を鎮めるものだろう。どういうわけか、鼻の奥にニンニクっぽい風味が生じる。ガーリックを使ったスナック菓子や加工食品のような、本当に僅かな感覚。しかしチューブにも薬にも、そんな匂いは無いのだ。どういう錯覚なのか。

ともあれこれで、安眠できる。回復が早まれば、言うことは無い。
忘れた頃には治るが、しかし痛いうちは忘れない、という難儀なもの、それが口内炎。早くナノマシンが実用化して、口腔粘膜なんてものはさっさと修復できるようにならないものか。



ナノマシンといえば、好きだった小説、「虐殺器官」の映画版が、ようやく公開される。これは必ず観に行く。出来が悪くても愛していく覚悟だ。それくらい、待ったのだから。

 

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

 

矜持と病気とピーマンと。

同じ職場の人が、急に辞めることになった。体調を崩してしばらく休んでいて、今週も本調子ではない。さらに、何か思うところがあるのだろう、来週までで辞めさせてくださいと上司に伝え、昨日から公になった。
有休消化などの都合で、実質的には今日が最後の勤務。明日は手続きと私物整理。まだ半年ほどしか勤務していないし、仕事の内容からして、引き継ぎを忘れて困るようなことは、たぶん現場レベルでは少ない。

特にセレモニーじみた事はしない。スピーチとか記念品とか、恒例となっているからと段取りを始めた他職場の人がいたけれど、本人の希望を汲んで(職場が一丸となって)阻止。
余談だが、この会社には「正社員以外の若い人が退職する」ことを「卒業」と表現する人がいて、僕はとても気持ち悪いと思っているのだが、ああいう言語センスはどこで身につけるのか。100均で揃えた寄せ書きグッズでお礼のメッセージ、だって必須ではないだろうに。
「やめてやれよ」って思う。

 

それはさておき本人は、とても恐縮していた。
僕に言えたことは3つ。

  1. 体調を完全に管理することはできない。
  2. ルールに則って働き、そして辞める。義務は果たしているのだから、迷惑に思う人はいない。謝ることは何もない。
  3. ありがとうございました。お元気で。

1はまあ、常識である。
世の中には体調管理と叫べば健康が増進すると思っている人もいるけれど、そんなに単純ならば医学薬学は21世紀前半には完成である。
二日酔いで出社するような人がいた時代に、揶揄や卑下の意味合いを込めて使われはじめた勤め人にとっての「体調管理」という言葉。いつの間にか標語になってしまった。ジョークがスローガンになる、という怖さと愚かさ。
今の時代、日常生活に不健康を積極的に組み込む人は、それほどいない。何日も寝込み、病院に通い、それでも自身の不摂生を止められない人は、何かしらの指導やカウンセリングを受けているだろう。
病んだ人には、優しくありたい。自分だって、病むのだから。

 

ダンジョン飯 4巻 (ビームコミックス)

ダンジョン飯 4巻 (ビームコミックス)

 

 

2について。
そりゃあ、仕事仲間が1人減るのだから、僕達としては大変である。個人的には仕事量が2倍になる作業だってある。
でも、それは愚痴であり、文句は上司に伝える。大変なのは、辞める本人の責任ではない。
言い換えると、休暇を取る人、辞める人の仕事を引き受けることは、僕達の給料に含まれている。上手くいくかそうでないかは別として、会社の仕組みがそうなっているのだから、責任を感じる筋合いは皆無なのだ。この辺りは労働法に書いてあるし、働く人間の矜持だと考えて間違い無い。

3の事は、特にここでは書かない。立派な同僚でした。健康になったら、何人かで「お食事会」をすることを約束。それくらいには仲が良いのだった。 

 

さて、こういう事を書くと、TwitterTumblrや、あるいはこのブログのコメント欄に、ちょっと手厳しい反論が寄せられることが過去に何度もあった。「迷惑を迷惑と言わないことが矜持?しんどいのは嘘じゃないんだから、我慢のし過ぎで病んでしまうのではないか」という趣旨の言葉がほとんど。
僕は思うのだけれど、辛いことをただ心のままに辛い辛いと言い続ける事と、自身と社会との間に理屈を定め、それを常にアップデートする事とでは、たぶん後者のほうが“病む”ことは少ない。失敗はあるだろうし、日々の思考量は増えるかもしれないが、自分の心がいつだって正解を示すなんて楽観はそれこそ危険だ。
それに、たとえ病んだとしても、そこから立ち直るにも必要な要素だと思っている。自身の“病んだ”経験からしても。

この種のエピソードでいちばんびっくりしたのは、ピーマンについて。
『「ピーマンが食べられない」と「ピーマンが食べたくない」は、少なくとも大人になったら区別すべきだ』という意見へ、上記のような反応が多く寄せられた時だ。これはもう、反論が面倒なので無視した。
個別の事例では、もしかしたらピーマンを食べられない自分を認めることで病んでしまうこともあるだろう(“病む”って大雑把な言い方だ…)。しかしそんなレアケースまで含めた“世界のルール”を語った訳じゃない。ただ、自分の欲求と、そう簡単には変えられない性質とを(言葉のうえで)混ぜているのは甘えだと思うし、害があるだろう、という文脈だった。

ここ数年、インターネット界隈では、この「甘え」を指摘されると、直ちに「厳しい意見だ!病んでしまうかもしれないじゃないか」と反論する人が現れる。確かに厳しい言葉と現実に病む人が顕在化した時代ではある。
では、と僕は考える。優しい言葉と美しい世界観を選べば心療内科通院者が減るのだろうか。そうじゃないだろう、というのが僕の実感であり、そして理屈も続くのだけれど、もう寝る時間なので割愛する。

言葉をもって自傷しろ、と言っているのではない。
ただ、自省もしないで見出す優しい世界は、たぶん自分自身も周囲の人も損なってしまう。

最後にもうひとつ。何であれ意見を書くと「そうしなきゃならないのか!」と怒る人が増えた気がする。読み捨ててくれればいいのに、って思うぜ! 

 

ハクメイとミコチ 5巻 (ビームコミックス)

ハクメイとミコチ 5巻 (ビームコミックス)

 

 

 

t_ka:diaryは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。