ラジオ体操という刷り込み

仕事の都合で、いつもより遅く出社。その代わりに遅い退社となるわけだが、朝がゆっくりなだけで、とても気が楽だ。そして、ほんの少しの時間差で、見える風景が違ってくるのも面白い。

半分が農地、残りが倉庫や中小の工場、という地帯を走っている時が、いわゆる「始業時刻」の少し前だった。多くの工場、それに事務所では、人が外に出て、ラジオ体操をしている。
道路が高台を走るため、よく観察できる。

 

みんな本当にラジオ体操が好きだ。
たぶん日本人は、ラジオ体操ならば業務時間外であっても、健康増進には誤差程度の効果しか無いと思っていても、それでも身体を動かしはじめる。
そういう風に、学校生活を経て、すり込まれてしまっている。
では自分の意思と発想で、朝の数分間を軽いフィットネスやエクササイズ、ストレッチで過ごせ、と言われたらどうだろう。多くの人が続けられないのではないか。
これこそが国民性だと思う。

 

だから良い、という話ではない。
僕はそういう、自動的に身体が動いてしまうようなもの、理屈ではなく習慣になっているもの、は意識して排除していくのが理性的な大人だと思っている。
「だって、たかがラジオ体操じゃないか」という常識は、いざ冷静にあの風景を眺めてみると、気持ち悪くて吹っ飛んでしまう。色合いと音声を変えたら、遠くて近い独裁国家の妙な国民運動と言われても気付かない。朝、皆でぞろぞろ並んで、ピアノの伴奏と掛け声に合わせて、決まった動作をする、それが会社から半ば強要されているのだ。せめて、効果効能の向上を求め、定期的にアップデートはして欲しい。医学も生理学もこれだけ進歩したのに、ラジオ体操は“既に完成されていました”というのは、さすがに嘘だろう。

 

便利な「とりくみ」ツールであることは否定しない。あれは職場の「健康向上活動」のリストを1項目増やすためには便利なのだ。多くの人が、ちょっと面倒だと思いながらも、前述のように身体を動かす。

ただ思う。普段の生活において、他の局面であんな風にイチニサンシと全員同じ動作をさせられる事は、無い。あれば話題にも問題にもなる。

 

だからラジオ体操が駄目だ、という話ではない。ラジオ体操、多いに結構。僕は嫌いだが、それはまた、別の話。
ただ、僕達の「普通」には、その普通さと両立する「奇妙」や「変」や「道理の合わなさ」が存在する。
当たり前だから、皆がやっているから、が理由にならない側面は、常に意識していきたいものだと、朝の通勤時間に思ったのでした。

 

素晴らしきラジオ体操 (草思社文庫)
 

 

 

 

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