カルダモンコーヒーと、おでんの牛すじ論争。

 
友達から、どっさりコーヒー豆を貰った。既に挽いてある。
バリ島で安かったので購入したが、どうしても味が受け付けないという。先日、1杯淹れてもらったが、確かに一般的なコーヒーとは違う。「薬膳」といわれても通用する雰囲気があった。
価格は恐ろしく安い。物価を考えても安すぎる。混ぜ物はしていないと思うが、味も香りも「馥郁たる」とか「奥深い」とは程遠い、なるほど安物ですね、という感じがする。


その誰もが納得の安コーヒーが、いつまでも冷凍庫を占めていたので、解消手段として僕が貰うことになった。
僕はこの種の品物に異国情緒を感じるし、何とかして美味しく消費する工夫を好む。自らの中で確立した手段を試してみて駄目なら、さっさと諦めるのが友人のスタイル。
どちらが良いとか悪いというものではない。僕は概ね暇人であるし、友人はばりばり働き、がんがん海外旅行に行くタイプなのだ。友人のパートナーは、そもそもこういう買い物をしない。


ここ数日、色々と試してみたが、スパイスの助けがあると美味しいと判明した。
小鍋に湯を沸かし、火を止めたら少しずつコーヒーを入れる(まとめて入れると突沸する)。カルダモンを加え、適当に弱火で温め、根拠なく「今だ」と思ったところで上澄み液をマグカップに注ぐ。
雑な淹れ方をしても味に大差が無いのは、低品質だからか。洗い物も少なく、消耗品も無い、とても楽な方法だ。
気分でシナモンパウダーを振る。半分飲んで、牛乳を加える時もある。
先程「美味しい飲み方を発見したよ」と報告したが、それほど興味は無いようだった。




マリアサンクの新作、りんごとはちみつのタルト。
おやつは、雨の中マリアサンクまで行った。なぜかすごく混雑していた。
はじめて食べる「はちみつとリンゴのタルト」は、とても美味しい。定番になって欲しい。はちみつ味の使い方が素晴らしい。





母が腰痛で動けないから、父と僕が料理をしている。もともと2人とも料理は苦にならないから大きな問題は無い。
少し母は、口うるさくなった気がする。嫁姑問題を連想させる、あまり本質的には思えない指摘が増えた。見ているだけ、というのは面白くないのだろう。
今日は珍しく「静岡おでん食材セット」を買った。普段は全ての具材を買い揃え、個別に下処理をする。それに比べるとずいぶん楽だ。
そしてデパートの出来合いのお節料理のように、普段は見かけないものが沢山入っている。我が家のおでんは、シンプルで限定された具材で構成されているので、具の種類が多いだけで嬉しい。



夕食の際、母に「これは牛すじ」と説明する。一般に静岡のおでんは、牛すじで出汁を取り、柔らかくなった牛すじを賞味する。僕にとっては好物でもある。
我が家のおでんは「澄んだ出汁」を珍重するため、肉類は使わない。静岡に住みながら、全く別の味を食している。


そこで母は、変な事を言いだす。「これは食べるのかしら?」と言う。「こんな筋っぽいものを食べるのかしら?いやあねえ」という含みがある言い方。
母だって、知識としての「静岡おでん」は知っているし、食べたこともあるだろう。それは認めたうえで「これが食べられるのかしら?」と言う。「出し殻」と捉えているらしい。
びっくりした。何十年も親子でいたのに、まさかこんなすれ違いがあるとは思わなかった。
そして丁寧に、その肉片が食品であることを説明した。世間では美味しく食べられている事、さらに地方によっては一般的な食材であることも伝えた。西洋人に海苔を説明する気分。



母は仕事で各地に転勤もしてきたし、旅行だって好きだ。全都道府県に行ったことがある。
でも老人なりに保守的なところがあり、それが時に、無頓着さとして現れる。
そして今日のように、変なタイミングで、ひやっとする発言をする。「美味しんぼ」だったら、何らかの争いが発生しそうな事を、ぽろっと言う。
よくわからないところで、意図せずに妙に口が悪い。
孫に絵本を読ませている時に「お祖母ちゃん、ばいきんまんどうしちゃったの?」「さあねえ。死んじゃったのかもしれないよ」という会話が聞こえて、やはりひやっとした。
「それを言ったらどうなるのか?」までを考えずに言葉が出てしまう。ちなみに甘いものを食べた時は、必ず「甘い」と言う。
厳しい言い方をすると、思慮不足だと思う。分別はあるというか、普段は堅苦しいとまで思えるのだが。「もしかしてお嬢様なのか?」と思う事が、稀にある。
幸い、旅行の前にはきっちりガイドブックを読み込む派なので、今のところ地域紛争や国際問題は避けられている。
その反面、言葉の端々に関する社会性という点では、父はずいぶん気を遣っている。「無知が原因で無礼になる」事態を避けるように意識しているし、その技術もある。


本当に稀なことなので「お母さん、そういう言い方は良くない」とは、なかなか言えない。普段はそういった踏み込んだ会話はしないのだ。
でも一応言う。特に、鍋に入っているものを「食べられるのか?」と言うのは不躾だし、もし外でそういう発言があったら皆が不幸になる。



全然関係ないが「牛すじを食べるのか?」という質問には、被差別部落問題に繋がりそうな雰囲気がある。あくまで印象として。
静岡中部では、ほぼ話題にされない、学校教育もされない同和教育。そのせいか、その方面の言葉の使い方に配慮が欠けている人は珍しくない。母もそうなのかもしれない。


脳のなかの倫理―脳倫理学序説

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