遠方より友来る

静岡百景


 三重県に住んでいた頃の知人達が、静岡まで遊びに来ている。お盆休みをずらして取得したそうだ。ちょっと会って、お茶を飲んで、話をしてきた。

 男女合わせて数人(今日は4人)の仲良しグループ。年に何回か、車に乗ってやって来る。もちろん僕に会いに来る訳ではなく、ただの観光。
 名古屋や京都や大阪ならよくわかる。三重県なら伊勢志摩なども良いと思う。しかし何故、静岡なのか。静岡県中部といえば、住んでいる僕ですら「観光する場所が無い」と困る土地なのに。奈良の街を歩くのならわかるけれど、静岡の中心街に来て楽しいのだろうか、といつも不思議に思う。

 発端は、かつて一緒に働いていた時に、静岡県中部を面白おかしく(法螺話も交えて)話した事だと思う。最初は「カトウさんの生まれ故郷、オモシロ都市SHIZUOKAへ行ってみよう!」みたいなノリだった筈。その頃は僕も頑張って、県外の人間が面白がるであろう場所を見繕って案内したものだ。最近はそこまで面倒は見ていない(連れていく場所も無い)。

 3時間かけて静岡に行き、PARCOや東急ハンズやショッピングモールや駅ビルを歩きまわって買い物をして、観光客向けの居酒屋で静岡おでん等を食べ、また3時間かけて帰るというパターンが彼らのスタイル。東急ハンズやPARCOなら(三重県には無いけれど)愛知県に大きい店があるじゃないか、と問うても「静岡の街を歩くのが楽しい」と言うのだ。「名古屋は広すぎる」とのこと。
 最近は「るるぶ静岡」等を読んで、日本平動物園や登呂遺跡も行くらしい。そろそろ20代後半になる彼らにとって「仲間とつるんで楽しめる日帰り旅行」、そんな馴染みの土地が静岡という事ではないか、そう推測している。

 正直言って僕にはよくわからない考え方だけれど、楽しそうで何よりである。
 残念なのが、自分の推奨する「静岡 街歩きコース」が彼らの好みとは全然合わないこと。僕はカフェとか雑貨屋とか本屋が好きだが、そういう場所を紹介してもそれほど喜ばれない。

 

 ところで彼らと話していて気がついたというか、ぼんやり考えていたことが1つ形になった。良し悪しの話ではなく、たぶん変化の話。

 最近は、自分の意見として「嫌い」と主張する事が当たり前になってきた。
 例えば「消費税が上がるのは嫌」、そして「原発は嫌」、「ガソリンが高いのは嫌」、「上司が嫌」、「政治家は嫌」、「中国も嫌」、「戦争も嫌」、「農薬は嫌」といった事を、皆がわりとあっけらかんと口にする。それらを伝える為に意見を組み立てる。逆に「好き」もまた、立派な意見として語られる。
 問題解決の為に意見を述べるというよりは、好き嫌いを表すための意見がずいぶん目立つ。
 大昔は、こういう「嫌い」は、例えば「苦手」と言っていた。「ピーマンが嫌い」と主張するのは幼い子供の言い方で、ある程度の分別がついたら「ピーマンが苦手」と言うのが当たり前。この場合、問題があるのはピーマンではなく自分自身というニュアンスがあったと思う。まあ、大抵はピーマンを無理矢理食べさせられたので酷い時代だったと思うが(僕は小学生の頃に家出をした事がある)、しかし世界には個人的な好き嫌いとは切り離したほうが上手に対処できる問題も多いと思うのだ。「消費税が増えるのは嫌→廃止すべきだ」なんて、議論のスタートラインとしても拙いだろう(言われたほうも困ってしまう。共感はできるけれど、共感で税は減らない)。

 直感と感情に任せていられる世界は豊かで余裕があると思う。でも僕の世界認識はもうちょっと厳しい。「嫌い」と表明しても避けられない問題は、わりと多い。

 

 

 

宝石の国(3) (アフタヌーンKC)

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