仕事中に、隣の机で上司と同僚が話を始めた。
「来月で、仕事辞めます」
「また急だな。理由は?」
「役割期待に見合った給料ではないからです。結婚する予定ですが、これでは生活できません」
「役割って、この前、『やりがいのある仕事』って言っていたじゃないか」
「やりがいがあっても、報酬が見合わない理由にはなりませんよね。むしろその、頑張れるから安くてもかまわない、と言う発想が我慢できません」
そんな会話。
僕は金属板に薬品を垂らしていたのだが(そういう実験であり、ここは企業の研究所なのです)、まあ有り体に言って“気まずい”。「席を外しましょうか?」と声をかけたが、2人とも「いや、かまわないよ」とか「特に秘密の話じゃないですし、お気になさらず」と言う。僕としては、「君たちが率先して、別室に行け」と思うのだが、まあ言える雰囲気ではなかった。だから再び薬品を金属板に垂らしたり電気を流したり検査装置を押し当てたりしながら、彼らの話に耳を傾けていた。
僕としては、しかし同僚の言うことはもっともだと思う。「給料は多いほうが嬉しい」といった無邪気な話ではなくて、期限付きの契約社員が正社員と同じく「期待される役割とその為のロードマップ」を書かされて、ルーチンワークとは別に自主的なお仕事をこなして(その為にはどうしても残業する必要がある)、仕事によっては責任者にもなって、10年は運用されるマニュアルの製作もして、それでこの給料では、ちょっと辛い。
上司は「今辞められると、みんなに迷惑がかかる」と言っていた。
この人、悪い人ではない。というか、一緒に働いていて楽しい、頼りになるリーダーだ。でも視点が「職場の内側だけ」であり、世間の常識よりも会社の常識に軸足を置く、というよりも世間の原理原則を知らないところがある。
「みんなに迷惑が」と言われても、僕は同僚が突然に辞めても、迷惑だとは思わない。有給を使って自分の仕事が増えてもそれは「給料のうち」であるのと同じく、きちんとルールに則って辞めたのならば、それをフォローするのも仕事なのだから、迷惑とはいえない。大変かもしれないが、仕事の苦労には感情は持ち出せない。苦労に対して、お礼を言われたら、それで気持ち的には満足。謝られたら、困ってしまう。
同僚が迷惑をかけるのは、せいぜい株主くらいだろう。無断欠勤でもしない限り、僕達はそう簡単に、仕事仲間に迷惑はかけられない、それが社会人というものだ。
感情の逃げ場が無いことは厳しいが、感情を売る必要がないぶんは、奴隷よりはマシといえる。残された人間は「愚痴」は言うかもしれないが、愚痴のために自分の人生を削る必要は、もちろん無い。迷惑と苦労を混ぜてはいけない。
「お前くらいに頑張っていれば、いずれ正社員になれる、と俺は思っているんだけどなあ」とも、上司は言う。
この辺りの“常識”が僕にはいまいちぴんとこないのだけれど、「いずれ正社員になれるのだから、他人より働いてアピールしましょう。今は我慢するのが当然」というのは、労使の関係として健全なのだろうか。今のがんばりは、今の報酬へ反映させて、そのうえで昇進なり社員登用をするのが正しいやり方ではないのか。でなければ、「ぶらさげたニンジンで疾走する馬」になってしまう。少なくとも、大きな声で薦めるものじゃない、と思うのだが。
まあ、同僚は辞めるだろう。
選択の先に幸せがあれば何よりだ。もし苦境に立っても、そのまた先に幸せがあって欲しい、と願うばかり。
ところで、こうやって「ルールより気持ち」の話に持っていくようになったら、世界はどんどん暗くなる。そりゃあ同僚だって辞めるよね、って思えてくる。
例えば、サンキューハザードを使わない車に怒る人がいる。あれは交通ルールではなくて、「親切」の部類なのに。親切は良いことで、受けた側は嬉しくなる。「ありがとう」と思う。
が、どんなに素晴らしくても、サンキューハザードを、親切を、相手に求めてはいけない。それがしたいのならば、相手の家族や恋人になるべきだ。赤の他人に親切を求めだしたら、世のなかはずいぶん住みにくくなる。親切の価値は、自発性にあるのだから。それに、誰もが似た発想を持つほど、均質な社会ではない。
つまり、「ありがとう」をルール化してはいけないし、職場の皆の苦労を持ち出して辞める人間を引き留めてはならない。僕達の責任は、ルールに基づいて設定されているし、ともすれば責任感は(人情を燃料にして)拡大してしまう。真面目な若い人なら、特に「申し訳なく」思ってしまうだろう。
抑制を心がけるくらいで、丁度良いのではないか。
だから同僚には、「これからの僕達の苦労に対して、「ご迷惑をおかけします。申し訳ありません」とは言わないで欲しい」と伝えた。なんとなく伝わったようで、感謝の言葉が返ってきた。
あ、全然関係無いが、面白そうなので買ってしまった。
映画の名場面を、素敵なイラストと文章で綴った本。
まだぱらぱらっとしか見ていないが、読み始めたら止まらない予感がする。