月とお散歩

買い物を夜にする習慣は、秋になっても続いている。
今日は少し遠いスーパーマーケットまで歩いてみた。日曜日の夜だからか、葉物野菜が壊滅的だった。特にレタスはひどい。手に取った誰もが売り場に戻したのだろう…と一目で納得できる、傷んだものだけ置いてあった。

 

 

ところで今夜は月が明るい。
ずいぶん前にいちど書いたが、満月の見た目についての錯覚は本当に不思議だ。

地面や山に近い満月は、とても大きく見える。
もちろんこれは錯覚だ。
月が楕円軌道を描いているといっても、見た目の面積では数割も変わらない。
少なくとも一晩の間に変わるわけがない。それほど地球と月との距離は変わらないから当然のことだ。
しかし多くの人は「今日の月は大きいなあ」と言う。さすが中秋の名月だ、と。

時間が経てば月は(見た目の)高度を増す。夜中に見る月は、普段と同じ大きさだ。
低い位置の月は大きく見えるのは、比較対象が近くにあるから。知ってしまえば簡単な話だ。

子供向け科学エッセイなどでは定番のエピソードではある。
論理的思考の第一歩として、誰でも知っている月を使うのは確かにわかりやすい。

 

 

面白いのは、この情報・理屈を知っているだけで、月が大きく見えなくなること。
他の錯覚の多くは、知識があっても騙されてしまう。遠近法を知っていても、絵に書かれた風景に奥行きを感じる。絶対音感的な視覚を得るには、知識と経験が求められる。

満月に関してはそうではない。
知ってしまえば、もう特別に大きな月は見えない。知識の有無で見え方がまるで違ってくる。
個人的な体験かと思ったが、複数の友人知人にも同じ"実感"の話を聞いている。

おそらくは、月を眺める行為は、大抵は落ち着いた状態でそれ自体を目的として行うことが理由なのだと僕は考えている。
月を何かの目的で、急いでさっと見るような事は少ない。
そして、落ち着いた状況ならば、脳と心は、視野を広げて月を見るのではないだろうか。
比喩ではなく、実際に視野が広がるわけだ。
高く上った月を見るときと同じ視野ならば、月のサイズは同じに見える。加えて、比較する周囲の対象物(ビルや山)も意識はきちんと切り分ける。
そうやって見える月は、特別に大きくない。よく言われているように、腕を伸ばしてつまんだ5円玉の穴のサイズだ。

 

人の脳と意識は面白いものだなあ、と思う。
一年に何度かある「名月」の前後に、このことを繰り返し実感しているような気がする。

ちなみに今日は、木星土星(たぶん)も近くにある樺色の月が、とても綺麗に見えた。サイズに関係なく、暗くなってすぐの時刻に眺める月は良いものだ。

 

お題「わたしの癒やし」

 

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