昨年の後半に親戚の不幸が続いてから、法事に関わることが増えた。
祖父母よりも遠い関係の人たちではあるが、遺族の方々(両親の兄弟や従兄弟達)が遠方に住んでいて、仏教関係のイベントになかなか参加できない状況が続いているのだ。
しかも間が悪いことに不幸が続き、その対応も連続している。
ちびっ子の予防接種のように、順番を調整して片付けていかなければならない。しかも、この新型コロナ禍に、である。
しかし宗教というのは基本的に“方便”である。
さらに言うと仏教(葬式仏教)はおそろしく柔軟である。
お墓の管理費などをきちんとしていれば、儀式自体は簡略化が可能である。あくまで物理法則の軛から逃れられないハードウェアの世界から離れた、ソフトウェアの問題なのだ。うまいこと書き換えて対応できてしまう。
とはいえ、いちおう誰かが顔を出さないといけないイベントもある。
さらに、亡くなった方の自宅整理や役所の対応といった、どう考えても方便では済まない諸々も存在する。
これら現実世界の問題について、静岡県内に住み、車で自由に動くことができ、子育て等にも関わらない暇な人間が対応することになる。いや、元々は直接の関係者である僕の両親が主担当者としてこれらの問題に関わっていたのだが、彼らもまた老いていて、そして気軽に外に出かけられる体調でもないのだ。つまり僕が動員される。
そんなわけで、今日もまた法事のために1人ででかけた。
きちんとしているけれど程々にカジュアルな服装*1で、静岡県の東部に行く。お寺や、今は無人となった親類の家や、霊園を巡っていたら、それだけで一日が終わってしまった。
せっかく東部にまで足を伸ばしたのだから、つまらない霊園(失礼)ではなくて、行きたいところもたくさんあったのに。なんとなく疲れて、隙間の時間を作るようなこともせずに過ごしてしまった。
面白かったこと、といえばお寺でのお坊さんとの雑談だろうか。
常に3mほどの距離をあけて、今日の儀式(お墓に骨壷を納める)について説明してくれた。今日は僕と従兄が参列したけれど、誰もいない時でもきちんとお経をあげるのだという。当たり前のようだが、その正当性を説明するのは本当に難しいのだと言っていた。神様と自分しかいないのなら、心の中でお経を唱えて済ませても何ら問題ない、なにしろ自分は帰依した僧侶だから。でもきちんとやる。「心の中で済ませないからこそ文化であり、他人から施しを受ける根拠になる」と彼は考えているそうだ。
宗教に興味はないけれど、こういうリクツ付けは新鮮だ。
これは静岡県東部とは全く関係のない、静岡県中部のラーメン屋さんで食べた「ねぎ雲呑ラーメン」。ネギを少し食べたあと。そして写真はブレている。