あの日のことを電話で話す。

毎年この日には遠くに住む友人夫婦から連絡が来る。
僕と彼らは、静岡であの大震災を体感したのだ。体感といっても、長い揺れがぐらぐらと続いて気持ち悪くて、その場にいた人達と情報交換をしただけだった。
東北が、そして日本があんな事になるなんて、その時はまるでわからなかった。「とりあえずなんかあるとまずいから家に帰るわー」くらいの軽い気分で解散したことを覚えている。

でも僕達にとっては、あの数分間は忘れられない。
嫌な予感も何もなかった。
不思議な地震もあるものだなあ、とそのやけに長い震度3か2程度の揺れを感じながら思っただけだった。帰宅途中に、運転中なのに車全体が揺れたことも覚えている。
今となっては、の話だ。

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今年はまた別の災厄に日本が覆われている。
四国に1人で暮らしている限りでは、今日は単に暖かな平日。
街に出れば人通りは少なく、小中学校に掲げられた「祝 女子バスケットボール部 県大会出場」のパネルには「大会中止」の紙が貼ってある。行きたかった美術イベントは中止になった。
しかしあの、何百人もの人が一瞬で亡くなった瞬間をモニター越しで見ていた*1ような恐ろしさは感じない。

でもなんだか、昨日よりも、そして明日よりも、3月11日は寂しい気持ちになってしまう。あの日を過ごした多くの人が、軽めの「喪」に服す日になったのではないか。
具体的に悼む相手もいない、記憶もどんどん薄れていく、そんな9年を経ても、その心持ちだけは続く。友人夫婦が連絡をくれるのも、そういう意味合いがあるのだと思っている。

 友人とは震災の話はほとんどしない。近況と、そして今の新型コロナウイルス禍についてのほうが長く話していたくらいだった。お互いに元気で何より、と通話を切った。

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ところで今日は、生まれて初めて、オンラインで見知らぬ人と将棋をしてみた。
相手は外国人だと思う。
お互いに超初心者。
2人とも失敗ばかりのまま、なんとなく勝ってしまった。しかし不思議なのか当たり前なのか、こうして拙いながらも理詰めのゲームをしていると、相手の気持ちがよくわかる気がするのだ。
「限られた場でロジックを突き詰めることが相互理解の最適手段」と何かで読んだ記憶がある。むしろ感情のぶつかり合いでは相手の事なんてわからない、と。
なるほどなあ、と感心した。

将棋も良いけれど、帰省した時に甥姪と遊ぶ「動物将棋」も好きだ。
よく練られたゲームだと思う。あんなに少ない駒で、大人と子供が真剣勝負をして、短時間で楽しめるゲームは少ない。
まだ甥や姪に負けることがある。盆暮れ正月の帰省でしか遊べないから、彼らの成長具合がわかるのも良い感じ。

動物将棋を考えた人は本当に偉い。 

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お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

 

*1:直接は見えないけれど、街が流される映像とはそういう事だ。