久しぶりに訪れた「喫茶 つきさむ」が閉店していた。
今年中に店を閉めることは聞いていた。
噂では長野県に移るらしい。山が好きな店主で、きっと長野の暮らしも合うだろう。例えば、先日訪れた松本市、あそこは街のあちこちが「つきさむ」的だと思う。
しかし知ってはいたが*1、つまり覚悟はしていたが、最後にもう一度だけ、あのお店で食事あるいはコーヒーの時間を過ごしたかった。普段は会話のひとつもしなかったけれど、最後とわかっていたら、お礼を伝えたかった。
この数週間は多忙で、なかなか行けないまま心のどこかで気になっていたから、なおさら残念。
大好きなお店、というのは片想いに似ている。
当たり前だが、全てが一方的なのだ。お礼が言いたい、なんて身勝手の限り。最近あまり行けなかったこともまたこちらの都合。
大好きならばお店に行き、楽しむ。それ以外に無い。
距離感が難しい。
今日は映画「GODZILLA 決戦機動増殖都市」を観たのだけれど、どう考えても気分に合っていなかった*2。
というわけで、一方的にお礼を言いたい。
言えなかった言葉、伝えられなかった感謝なんて今まで生きていていくらでもあるけれど、今日またそういう行き場のない何かがひとつ増えてしまった。
でも、それでも、だからこそ「つきさむ」の思い出は掛け値無しで僕の糧になっている。
もはや何年間通ったのかもわからない。
何杯のコーヒーを飲んだのか。
参考にした料理や真似をしたい空気感、そういう影響だって、明確に説明なんてできやしない。
そもそも店主さんと長い話をしたこともなく、あの店で仲間が出来たり、人生のイベントがあったわけでもない。ただ美味しいごはんを食べて、あるいは趣味の良いスイーツとコーヒーを楽しみ、多くの場合はひとりで読書をしていた。
せいぜい、同じ静岡県中部で知り合いができた時に「あの北街道沿いにある『つきさむ』は素晴らしい」とお互いの“お気に入り”だったことを盛り上がるくらい。それじゃあみんなで行きましょうか、とは誰も言わない。それぞれが親しい人と、またはひとりで楽しむ、そんなお店だった。
つまり、ひっそりと個人的に大切なお店。
唯一無二のお店が無くなり、今は静かにその不在を噛みしめている。
あの店の思い出は確実に僕の人生の血肉になっている。不在感をそのまま受け入れて、誰にも届かない感謝を伝えたい。
僕はもう若者ではない。だから、どうにもならない感傷を抱えることも、その不在感や後悔もまた宝物であることも、よくわかる。それでもやっぱり、寂しい。
本当に素晴らしいお店でした。
一生忘れない。一生、尊敬する。
名前も知らない店主さんに、掛け値の無い感謝を。
ありがとうございました。美味しかったし、居心地が良かったです。