職場に来ている外国の人達と雑談をする機会があった。
日本に長く滞在していても未だに慣れないこと、が主な話題。というか僕が質問した。
皆が、口を揃えて2つの“慣れないこと”を語ってくれた。
まず一つ目は、「気配り、マナーをルールとして定めようとする」、そんな風潮。例えば「あいさつ」を学校や職場で、「活動」として行うことがそう。
場が明るくなる、知らない人と話すきっかけになる、といった効能(?)があっても、しかし挨拶というのはごく個人的なものだから、ルールにするのはそぐわない、と彼らは言う。
言い換えると、「決まり事にした時点で、持ち味を喪う」という事らしい。それらは「家でやれ。子供相手に」とも。
これは、僕も多いに同意する。
地元では、バイパスの合流路などで「前に入れてもらったらハザードランプで謝意を示す」という風習(ローカルルール)がある。あれをやらないと腹を立てる人がいるけれど、赤の他人に親切を強要するというのは、同質な(あるいは、そう思い込んでいる)社会の、残念で幼稚な部分だと考える。
必要ならばルールにすればいい。ただしその目的や基準、場合によっては逸脱した場合の対応まで決めなければ、それは人を縛るに値しないし、「みんな」ではない人達を磨り潰すことになる。
それくらいは歴史から学んでもいいんじゃないかな、と僕は思うのだけれど。
2つ目は、「マジョリティーがルールに無頓着なこと」だと言っていた。民主主義の世界においては、多数の側が力を持ちやすい。ならば、だからこそ、多数決で勝つ側が、弱い側のことも考慮すべき、と考えるのが善き大人ではないか、と言っていた。「だって、政治家には立派でいてほしいでしょう。だったら、選挙で勝つ側の俺達も、立派でいなければ駄目だよ」と、至極真っ当な意見。
政治や法律に限らず、あるいは性的指向や人種に限らず、日常生活や仕事の場でも、確かに当たり前のように、そんな傾向があると感じる。
こうして言葉になると、あれもこれもと形を持って浮かんでくる。
そして、上に書いた「あいさつのルール化」なんてものを、誰もが納得しないままにとりあえず取り組む流れも、きっと同じ根っこがあるとも考える。
彼らとの会話で面白かったことが、もう一つ。
「『日本人は八百万の神々を信じているから、他宗教に寛容』って、“から”の部分を疑わないのが不思議。それに、他国に比べて寛容さは平均程度ではないか」と。
なるほど確かに。そもそも僕達は暮らしのなかで、この目の前のiMacや、先ほど使ったトイレや、晩ご飯に開けた炊飯器に、いちいち神性を感じ敬虔な気持ちになるだろうか。
そして、近所に引っ越してきた黒い肌のイスラム教徒の見馴れぬ行動に「ええのええの、神さんは遍在するけん。気にせんよ儂らは」と寛容になっているだろうか。イスラムの神を理解したうえで。
僕は「日本人は宗教に寛容」という言葉に対しては、「つまりは無関心なのだ」と考えることにしている。上に書いた2つの社会性についての分析(?)からすると、“みんな”の状況によっては、笑顔で不寛容になれるし、もっと怖いことだってピュアな心でやり遂げるだろう。そう、ここは「イジメ」の国でもあるのだから。
ともあれこういう多国籍茶飲み話はとても楽しい。
仕事帰りに近所のドトールで安いコーヒーをおかわりしながら長話をしてしまった。ドトールで2杯目を注文するなんて人生初かもしれない。
まるで関係無いが、それから帰宅する途中で、藤枝市のスイーツ店、「ボクゥボクゥ」で甘いものを食べたのだった。
玄米茶のルリジューズ。抹茶でも緑茶でもなく玄米茶というのが素敵。落ち着いた色合いも、他ではなかなか出会えない。
甘党紳士としては、ただ味わうだけでなく、綺麗に食べ進むスキルも求められる。シュー菓子は難易度が高めだけれど、思い切りと機転があれば突破できる。大切なのは勇気。
そして、美しく食べれば、それだけ美味しさも増すというもの。今日はかなり上手くできた。