「邦画の当たり年は、シャンメリーの当たり年」と言われている。確かにそういう傾向はあって、例えば今年のクリスマス前に開けた何本かは、納得の味わいだった。
白もロゼも素晴らしい。赤は好みからは少し外れたが、それでもここ数年で最高の出来だったことは間違い無いだろう。ネット上でもずいぶんと話題になっていた。
でも、少し肩すかしを食らった気分になったことも確かなのだ。
なんというか、予想の範囲内の美味しさだった。
ここ数年の傾向、言ってみれば「日本シャンメリー界の進歩と向上」と年月の経過をグラフにプロットすれば、これくらいは当然だろう。かつて「飲むアート」と呼ばれたそれが、単なる工業製品にしか思えない。
クリスマスイブ用に冷やした1本はさすがに素晴らしかったが、もはや語る言葉は出てこない。だから、このブログにもきちんとレビューや感想を書けなかったし、Facebook上のやりとりも隔意しか感じなかった。
ずいぶん長い間、シャンメリー好きを自認していた。いくつもの同好会に出入りし、わざわざ専門店の会員になって、時間とお金を費やした。掛け値無しに楽しい趣味だった。
でも、今年が最高峰だとして、それを愉しめないとしたら、もう“潮時”かな、とも思ってしまった。
mixiのコミュニティで飲み比べレビューを繰り返していたあの熱は、ついに冷めてしまった。そんな風には思いたくないのに、分析を超えた愉悦は、とうとう訪れなかった。
十分に美味しいのに、少し寂しい気がした、そんなクリスマス前の試飲は、初めてだった。
とはいえ、間違い無く美味しい飲み物ではある。
それに、まだ未開封のボトルが半ダースは残っている。せっかくなので今日の夕食に開けてみた。シャンメリーに年を越させるな、と村上某も言っていた。
びっくりした。
クリスマス前に開けたものと同じ銘柄、同じロットでも、こんなに味が違うものなのか。
美味しさは変わらないかもしれない。いや、たぶん変わらない。でも、奥深さというか、力強さ、口に残る余韻が、まるで違う。
特に「北駿鉱泉(有)」のロゼは格別だった。
例えるのならば、学生時代に勉強だけ出来た優等生に、大人になってから再会したら、きちんと趣味も家庭も楽しめるようになっていた、みたいな感じか。つまらない奴、とどこか下に見ていた人間が自分よりも望ましい人生を歩んでいた事に対する嫉妬と、彼が夢中になっていた理論数学や第二外国語が、人生を豊かにする土台となっている感慨、そんな複雑な気分が、一杯のグラスにしゅわしゅわと注がれている。
どうしてこんな変化が起きたのか、全くわからない。
どのボトルを開けても、格段に変化している。それも、良い方向の変化に。
魔法、と単純に言いたくはない。果糖ブドウ糖液糖と酸味料、着色料、そして香料に少しの風味付けに洋酒、二酸化炭素に水、それらをボトリングした品は、奇跡も魔法も似合わない。
しかし今は、この変化をただ愉しもうと考える。
かつて師は言っていた。「肩の力を抜いて、人生を愉しむように、シャンメリーを飲み干せ」と。
今になってその言葉がようやく腑に落ちた。実感として、わかる。
今年のシャンメリーの変化、それは僕の心境や体調が原因かもしれない。実際に1週間足らずで変質したのかもしれない。どこにも変化なんて無くて、そう思いたかっただけ、という事も多いにありうる。
考えるのは後でもできる。
今は、開けたボトルから、シャンメリー・グラスに注ぎ、飲む。それだけで十分。
堪能し、感謝し、五感で慈しむ。来年の出来、再来年の味わいを想像し、過ぎ去る時間を惜しむ。
人はそれを、幸福と呼ぶのだ。
あるいは、希望と名付けたのだ。
振興会認定シャンメリーのラベルには必ず書かれている言葉(手元のボトルを見てください)、「Ars longa, vita brevis.:芸術は長し人生は短し」そのままを体感させてくれた、それが今年のシャンメリーだった。
これだから、シャンメリーは止められない。