日本語は片言、英語の読解は達者だが会話は苦手、という海外からの研究員さんから声をかけられた。
「あの子が、センスが無い、って言ってたんだ。酷いね」と。
ずいぶん傷ついて、というか動揺している様子。
センスが無い、と発したのは、彼にサポート役として付いている女性社員。まあ、語彙が豊富な人とは言えないし、確かにそういう言い方をしそうな感じの人ではある。でも気の利く元気な人で、決していきなり罵倒するタイプではない。
丁寧に解説する。
日本語の「センス」は、英語でいうところの「taste」であること。「無い」とはいうが、せいぜい「自分達が共有する価値観とは違う」程度の意味である、ということ。
逐語訳したせいで、「あなたには感覚が無いのだ」と受け取ってしまった、ということだろう。「五感に欠けたところがある」なんて、確かにスラングっぽい。人前で言ってはいけない言葉をぶつけられた気にもなるだろう。
そういう気持ちは、僕にも経験がある。引っ越した先で、お年寄りが親切のつもりで、「この近所にある被差別部落」の情報を教えてくれたことがあった。あれには本当にびっくりした。
悪気は無かった、とわかり、彼もほっとしているようだった。
でも一言、「その“センス”について、違うとか同じではなく、有り無しで通じてしまうところは、ニホンっぽいねー」と、にやりを笑いながら言っていて、この田舎の(みんな同じ感覚であるのが当然とされる)生活に違和感、もっと言うと嫌気が差していることが伝わってきた。
新興国とはいえ都会人の若者にとって、同年代の人間が「自分達の常識が皆の当たり前」と言って憚らないこの土地・職場は、さぞ居心地が悪かろう。僕ですら、嫌なのに。
この件、その「センスが無い」と言った社員さんにも伝えておいた。
が、全く意味がわからない、と言う。「だってセンスはセンスじゃん。それにセンスが無いって言った対象は彼じゃなくて別の人だし」と。「センスが無い人は、本当にゼロだよ。私にはわかるんだ」。
元より想像力に欠ける、一昔前の言葉でいう「マイルドヤンキー」な人ではある。「ディズニーの哲学」が大好きで、だから「世界中の人がディズニーランドに行けば世界から戦争なんて馬鹿なことをする人はいなくなる」みたいな事を(悪気無く)言ってしまえる人。モラルを上手にビジネスにした、という点でウォルト・ディズニー氏は凄い人ではあるが、ではディズニーランドが提供する世界観を皆に押し付けるのはどうかな、と僕などは思うのだが。たぶんアルカイダの人も、同じように考えるだろう。
ディズニーといえば「女性はみんなディズニーランドが好き」とも言っていた。「僕の親しかった女性達は、どちらかと言えばディズニー的世界観に興味が無かった」と伝えたところ、「それはただの天邪鬼でしょう」と言われてしまった。いや、アンチではなく無関心なんですよ、と言うも、当然通じない。そういう人だ。
ともあれ、まず日本人は、カタカナの日本語は英語とは乖離したものである、と頭に叩き込むべきだ。英語で意思疎通をする際に、大きな障害になる。中国人に、麻雀用語で話しかけるようなものだ。
今回のような誤解ならば、すぐに笑い話になる。
でもやはり、これは恥ずかしいことだと思う。っていうか、小中学校の英語教育では、世の中に溢れるカタカナ言葉と、「本物の英語」との違いは、しつこいくらいに教えたほうが良い。それだけで、「英語力」とやらは、あるいは世界認識は、ずいぶん変わるだろう。
語学の問題はともかく、何よりまず、センス(つまりtaste)を、有るとか無いとかそういう物差しで語るのは、せいぜい家族までにして欲しい。または、特定の感覚が要求される限定された状況。ある種の専門家同士とか。
「お前の価値観なんぞ知らんがな」とお互いに考えても喧嘩をしない、それが現代の他人との関わり方の基本だろうに。その基本の立ち位置が有るからこそ、相手の価値観の素晴らしさを学べたり、わかり合えるのではないだろうか。
でなければ、「仲間じゃなければ、わけのわからない奴ら」という世界になってしまう。尊重するには想像力が要るし、想像力を広げるには知識が必要。インターネットなんて、そのための教材みたいなものだ。ある意味では。
地方にこもる若者たち 都会と田舎の間に出現した新しい社会 (朝日新書)
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