近所のスーパーマーケットで、「むかご」が安かった。
山芋の枝につく、小さな芋みたいな種みたいなもの。本来は、ぽろりと落ちて、発芽する。
食べると、超小型の山芋のような感じ。炊き込みご飯にしてもいいし、蒸して塩を振っても美味しい。
僕は山芋自体があまり好きではない。あの粘りが苦手。だから好んでは食べないが、しかし季節の味として、ちょっと野趣があって良いものだとは思う。
「むかご」について、このスーパーマーケットでは「油で揚げてポテトに!」と提案していた。
たぶん「ポテト」というカタカナ語がお洒落だった時代の人が、ポップサインを書いているのだろう。今は信じられないが、そして僕だって知らないけれど、確かにそういう時代があったのだ。例えば「サラダ」や「トマト」だって、店の名前に使うと「オシャレ」だった時があって、今でも寂れた観光地に行くと、その残骸が残っている。名古屋などでは、残骸ではなくて現役だったりするから凄い。
ちなみに「トマト」よりは「とまと」のほうが、“らしい”と思うネ!
ポテトといえば、「大学ポテト」と書けばお洒落だと思っているおばさんも世の中には存在する。具体的にいうと、近所のスーパーマーケットの青果担当者が、そういう人で、別に悪くは無いけどちょっとねえ、という気持ちになる。
「大学芋」の何が悪い。いや、きちんと調べれば何かしらの違い(クックパッド的な・ためしてガッテン的な差異)があって、そこは書き分けなければいけないのかもしれないけれど、でもあれはどう見ても大学芋だ。
今の老人、あるいは熟年と呼ばれる人達は、どうにもカタカナ語が好きすぎる。正直、馴染めない。簡単な英単語をカタカナにしたものが「オシャレ」なのだ。もう少し他の世代のことも考えて欲しいよね、と思ってしまう。
おそらく、僕の年代になると、このカタカナの神通力は薄れているように思える。だからこその違和感なのだろう。
では何が格好良いのか、というと上手く答えられないのはつまり、自分のことはよくわからない、ということなのだと思うのだが、どうか。ロック性、サブカル性、という単語が頭に浮かぶ。
いわゆる「最近の若者」はどうか。
彼らは「綺麗で強い日本語」が好き、なように見える。それはもう、恥も衒いもなく使う。
ただしこれはもう“若者批判”のニュアンスを含んだ観察と分析になるので、ここでキーボードから離れようと思う。
さて、「むかご」は、中国風の茶碗蒸しにどっさり入れてみた。
見た目は気持ち悪いが、濃い味のあんかけと玉子に、妙に合う。成功作、だと思う。
まだたくさん残っているから、明日は定番の炊き込みご飯にしたい。
ところで、茶碗で作らないのに「茶碗蒸し」って、不思議な名前だと思うのだけれど。中国にもそれなりの名前があるはず、ならば料理本も「中華風茶碗蒸し」みたいな書き方を改めてもいいんじゃないか。誰が困るわけではないが、そういう細かな心遣いが、例えば中国や台湾に旅した時に、レストランで活きる気がする。
これは今日のひるごはん。
来月に友達のお祝いをする予定があって、その店に”偵察”に行ってきた。
ひとりのランチにしては豪華だが、しかし確かに美味しかったランチコース。というわけで予約した。
豚肉のグリル、マスタードソース。焼いた、あるいは揚げた野菜が付属している。特に「黒キャベツの素揚げ」が気に入った。この写真は酷いと思う。実物は素晴らしいです。