水素水信仰

ニセ科学を10倍楽しむ本 (ちくま文庫)


仕事が早く終わったため、友人夫婦と夕食を食べに行った。
和食全般とトンカツが有名な料理店。友人夫婦はお酒を飲み、僕は緑茶を飲む。

食事は悪くなかった。期待以上だった、と彼らも言っていたし、僕もそう考える。

ただし水が悪い。
水質の問題ではない。この店、大きなセラミックス製の瓶に「水素水」を貯めてあって、蛇口の脇に「ご自由にお飲みください」と書かれているのだ。料理にも使われているし、驚くべきことに「当店のご飯は水素水で炊きあげました」とのこと。

個人的な意見としては「何が『炊きあげました』だ。ばかじゃないの」と思う。陶器の水瓶内に留まり、炊飯に使っても残る、そういう僕らの知らない性質の水素分子が存在するのか。「水酸化マグネシウムを使用しない純粋な気体水素です」というのも、ずいぶん酷い。
別に水素自体は毒にも薬にもならないだろう。
ただし、こういう似非科学をころっと信じてしまい、善意か商売的な目論見か、あるいはその両方を込めた貼り紙をしてしまう店は、どこか信用できない。例えば衛生管理に妙なおまじないグッズを使ってご満悦、という可能性を考えてしまう。

というわけで、食後に渡されたアンケート用紙(オープン直後なのでお客様の声が聞きたいそうだ)には、「水素水は(インチキくさいので)やめてほしい」旨、言葉を選んで記入してきた。

 

そういえば静岡市の山奥にある「全食材ベクレル検査済」のオーガニックなパン工房も、水素水を推奨していた。たぶんパン生地に使っているのだろう。
あの店の「ベクレル検査機」は、90年代テクノイベントっぽいクールな模様の板と、テルミンの光バージョン的なボックスを組み合わせた、大変に味わい深い代物だった。手でもスマホでも、何かをかざせば弱々しくLEDが点灯し、ふわっと消える(安全のサイン)。動作がほぼランダムというのも素敵だった。
「あの日以後の混乱」を物語るモニュメントとして、保存しておいて欲しい。ダミーとすり替えても気づかれない気もするが、それはそれとして。
でもこの種の「問題意識を抱えた人」というのは、基本的に移り気である。このベクレルなんちゃらも、今はほぼオブジェと化しているし、「ご自由にお使いください」とあるが、自分以外が使っているところを見たことがない。捨てるのなら欲しい。

 

こういう事を書くと、コメント欄やTwitterに「だって、わからないじゃないか。お前は水素水と水素のことを全てわかっているのか?」と反論する人が高確率で登場する。
僕は思うのだが、この局面で「わからない」は、物事を信じる理由になるのだろうか。それはもしかして、「わかるから信じる」と「わからないから信じる」の2つを、自分の気分とセンスで使い分けて採用理由にしているだけではないのか。
全てを知ろうなんて僕だって思わない。ただ、水素や科学用語を信仰の対象にはしたくないし、そういう態度は誠実ではないと思っているだけ。他人と、それも健康や生活について語るには、衝動や感動だけでは無責任だ。
別の言い方をすると、信用の問題。信仰の問題、とはちょっと違う。

 

まあ、件の「水素水和食処」には、僕も友人夫婦も、積極的に訪れる事はないだろう。外食する店は多々あるし、わざわざマイナスイメージを持った店に2回以上行く義理も無い。釜飯(水素水を使ったのだろうか?)も、カツオのフライも美味しかったのだけれど。

 

人はなぜエセ科学に騙されるのか〈上〉 (新潮文庫)

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「わかる」と「納得する」―人はなぜエセ科学にはまるのか

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