手に余る問題

友人と、彼の息子を静岡駅まで送り届ける。
時間調整のため、駅の近くの書店に寄った。

もうすぐ誕生日ということもあって、息子さんに本を1冊買うことにした。「好きな本を選んで下さい」と伝え、自分は自分用の本を物色する。友人は雑誌コーナーに行ってしまった。

 

そのうち、「この本がいい」と声がかかる。手には「保健所で殺処分されるのを待つ、可哀想な捨て犬の話」みたいな写真本を持っている。「学校で流行っている」と言う。彼は小学二年生。僕はちょっと考え、そして大変に困る。

僕だって、保健所で殺処分される犬は可哀想だと思う。
皆で考えなければいけない問題。写真を見たらなおさらそう感じてしまう。それは異論がない。

でも可哀想で済む問題だとも思わない。義憤を感じた人それぞれが引き取り手になって、万事解決という訳にもいかない。犬は増えるし、捨てる人は多い。
そもそも、飼えない人だって多いだろう(友人の家が、まさにそうだ)。家族を一匹増やすのだから、軽々しく考えてはならない。

そういう微妙な問題をはらんだ本は、僕の見た限りでは「彼の手に余る」。
答えの出ない悲しみを抱えてもらうためにプレゼントをしたい訳では無いのだ。
「物事を考える良いきっかけ」というには重すぎるし、その割に「可哀想」な部分だけ強調しすぎな雰囲気も気になる。普段は気にしない「高学年向け」という表示も、今回はもっともだと思う。

というわけで、もう少し穏当な本を選んでもらう。
「“おんとう”って何?」と聞かれたから、短い言葉で解説する。そして動物図鑑(ポケットサイズ)を購入した。

 

今になって、少し考えこんでしまう。
検閲しているみたいで、なんだか嫌な感じだ。
しかしまあ、流行っていて学校図書館で読めるのならばそれでいいじゃないか、とも思う。
読む本は自由にすればいいけれど、手元に置く本というのは別に考えたほうが良い。特に繰り返し読むであろう、子供の本棚に関しては気を遣う。

 

友人(立ち読みに夢中)には事後報告になってしまったが、こういうことがあったと後で伝えた。
「保健所→殺処分→可哀想」な本に関しては、PTAでもちょっとした議論になっていたそうだ。「じゃあ牛を食べるのは可哀想なのか」みたいな極論も出てきたらしい。
僕だって友人だって、この件には一応の結論を持っているのだけれど(両者とも科学を齧った身である)、その考え方を皆に押し付けようとは思っていない。多くの社会問題と同じく、それほど単純では無い。
粛々と自らの信念に従い行動し、あるいは情報収集と持論の見直しをしている。それ以上の事は、なかなかできない。

数年前の一時期、その種の本をまとめて読んだことがある。
いくつかの本は問題意識と示唆に富む、読み応えのあるものだった。しかし7割くらいは、単に「可哀想だね」としか言いようがない、悪い意味でケータイ小説的な「泣くための本」に過ぎなかった。あるいは何かを押し付けるような本。
今日、息子さんが手にしていた本もまた、ぱらっと見た限りでは7割のほうに見えた。もしかすると、「小学校で流行っている」というのも、「可哀想」を休み時間や放課後に堪能・消費するだけではないか、と勘ぐってしまう。
それは僕の好むところではない。とはいえ悪い事では無いし(なにしろ二年生なのだ)、僕も子供の頃は単純な話に夢中になった。

ただ、写真で「可哀想」を強調するのもいいけれど、こういう時こそフィクションで(できれば後味の悪い読後感で)印象に残すほうが子供には良いのでは、と思う。あくまで個人的な趣味の話として。

 

ペット殺処分---ドリームボックスに入れられる犬猫たち (河出文庫) 殺処分ゼロ―先駆者・熊本市動物愛護センターの軌跡

 

 

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