魂は誰のものか?ドーナツは誰のものか?

 



友人2人とファミリーレストランデニーズ」に行く。彼らの結婚式に使う様々な印刷物を引き受けているので、その打ち合わせ。
といっても、今のところはアイデアをメモしていくだけ。ほぼ雑談と、コーヒーを賞味する時間。



そのうち高校生の大集団が入店して、店がいきなり騒がしくなった。いくつかのテーブルを合わせ、席を作る。
人数が多いから騒がしいだけで、特にガラが悪い訳ではない。ガストで精一杯寝そべって携帯電話をいじっているヤンキーな人達とは違う。善良そうな、普通の高校生達。
しかし服装が変わっている。皆がばらばらの服装で、しかし色だけが黒い。手持ちの黒い服を合わせてきた、という感じがする。



なにやら、全員が怒りを共有している感じが伝わってくる。
そしてファミレスにいる「怒っている人達」が気になった時は、しばらく耳を澄ましているだけで、大体の事情がわかってしまう。
週刊連載漫画の第1話みたいに(あるいは演劇の最初の一幕みたいに)、親切に状況説明をしてくれるのだ。ファミレスの不思議の1つだと思う。
彼らの場合は、以下の通り。

  1. 学校の先生が亡くなった。
  2. 担任ではないが、世話になった人だ。クラスの皆に連絡をまわして、非公式に弔問をしようと決めた。
  3. しかし制服は青系統のブレザーである。喪服として相応しいか、よくわからない。各自が工夫して黒でまとめよう、と決める。
  4. 当日、都合のついた仲間全員で「お別れの会」に出席。
  5. 喪服を持っていた人もいたし、借りた人もいた。黒いジャケットとブラックジーンズ、黒いワンピースや、黒いTシャツの人まで色々。
  6. 会場へは入れたが、式には参列できなかった。
  7. 服装と、事前の連絡についてチクリと注意された。
  8. 大人達の態度と言動は、形式主義で偽善的であると全員一致で決定された。
  9. 大切なのはココロ、死者を悼む気持ちは誰にも負けていない(ウチら悪くないじゃん)。
  10. とりあえず飲み物を注文しよう。後は皆でつつけるもの。(現在)

なるほど、青春である。良し悪しは別にして、そして良くも悪くも青春だ。
それはまあ、怒られるだろうと思う。控えめなビジュアル系バンドみたいな服(ジャケットの下はだらっとしたTシャツ)で現れたら、大人の誰か(他の教師?)に注意されても仕方がない。
「お別れの会」という、おそらく宗教色の薄い葬儀であっても、やはり「フォーマルな服装」が求められる。死の床に駆けつけた訳ではないのだ。


これは死者への敬意といった問題では無くて、単純に「教養」の不足が原因だと、僕は考える。
今朝までに、誰かが親に「恩師の葬儀に参列をしたいのだが、必要な振る舞いと服装を教えてくれ」と相談をする、その程度の教養。
何割かの生徒はそれが出来ていたようだが、皆に共有するまでには至らなかった。そして事前連絡の必要にも気が付かないまま、会場に到着する。


理論武装と虚栄のツールである「教養」は、他人へ敬意や感情を伝える際にも必要とされる。教養がなければ伝えられない種類の「気持ち」もあると、多くの大人は承知している。
残念な事に「教養」は青春と相性が悪い。簡単に言うと「社会性なんてゴミ箱行き」と考えるのが、青春を生きる人達の美学なのだ。
僕にももちろん思い当たるふしがある。知識や理屈で飾られていない、混じりっけ無しの「気持ち」こそ崇高という価値観。



なんとなく、全体のノリが「担任の先生にサプライズ・プレゼント」あるいは「文化祭の後に生徒だけで打ち上げ」みたいにも思える。
でも真剣である事は確かだ。気恥ずかしいくらいに真剣。
そのうち「これでは先生の魂が浮ばれない」と言い出した。「俺達だけで何かしたい」という意見が全体を支配する。
「なるほど、そういう方向に考えが向かうのか」と僕は思う。友人達も「まあ収まらないよね」と言う。誰もが(30代の男女なら多少なりは)経験がある「青春」といえる。



そこで何故か、唐突にデニーズのウェイトレスさんが口を挟む。
「あなた達、いい加減にしなさい。今すぐ電話して、担任の先生か誰かを経由して謝っておきなさい」と静かに伝える。
特に高校生達の家族や親戚では無いと思う。客として顔を知っている人がいたのかもしれないが、その程度の付き合いだとは思う。
僕もこの人には給仕をしてもらった事がある。一時期は顔を覚えられて、何も言わずとも禁煙席に案内してくれた。ごく普通の、変なところが無い、ベテランパートのウェイトレスのおばさん。
「今謝らないと、とても嫌なことになる。後になって後悔する」と言う。
僕は「どうだろう?赤の他人に、そんなに確定的な予言をして大丈夫だろうか」と不安になる。根拠がわからない。年の功かもしれない。
でもよくわからないこのアドバイスは、唐突さも含めて高校生達に何らかの作用をもたらした様子で、彼らの「振り上げた拳」は、静かに下げられた。
そして「うん。じゃあ折角だからカラオケにでも行こうか?」「そういうのも悪くないか?ほら先生死んだんだし」「テスト勉強してる?」と、ばらばらな話をし始めた。
ドラマの様に「ちっ、興が冷めたぜ」みたいな捨て台詞も無いし、「でもやっぱり何かしたい」と拘る人もいない。普通の(服装だけが黒い)高校生集団になった。





亡くなった人の魂は、既に生者の物なのだと思う。死んだ瞬間に、ソウルもスピリットもタマシイも、葬送する側の所有物・問題になる。
その認識は大切な事で、大人になると「死んだ人が浮かばれるかどうか」を、正義と結びつけて言う人は少なくなる。宗教関係者はともかく、原則として「死んだらおしまい」なのだ。
実は気持ちが収まらないだけの話を「これでは浮ばれない」と言い出すのは、やはり高校生らしい屁理屈だと思った。屁理屈だが、気分としては当たり前だと思う。



学習と加齢によって「魂の行方は生者側の問題」という事実が身に沁みてくると、死者を悼むスタイルに拘らなくなる。
そして、儀式を行って「はい終わり。死者は天国に行きました」という風に簡単に区切りがつけられなくなる。儀式は必要な事が多いが、それだけでは済まない。
子供の頃は、それが全然わからなかった。
映像作品でよくある「死んだアイツの為に乾杯」とやって、その後は普通に見える男達。あれは非常識だと思っていた。リアルじゃない、とすら思った。



しかし変な終わり方のエピソードだ。
映画だったら「ラストへの転換が不自然だ。あのウェイトレスはデウス・エクス・マキナ具合が嘘臭い。興ざめだった。★1つ」という評がつきそう。
今でも思い返すと不自然だと思う。しかし嘘では無いし、これくらいの突飛な事件が発生するのが日常なのかもしれない。
高校生達も、あの怒りこそ消えたものの、価値観の転換は全くしていないと思う。そうであって欲しい。







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午後は、ミスタードーナツに行った。今日まで「秋のイモとクリの収穫祭」みたいなフェアを開催していて、季節限定品が少しだけ安い。
平和にドーナツを堪能していたところ、「クレーマー」っぽい人と店員との間で揉め事があった。
「小型犬を抱いた客」に「衛生管理上よろしく無いので犬はご遠慮下さい」とお願いする店員。「失礼な事を言うな。シーズーのパンちゃんは可愛いし頭も良い」という客の主張。
「犬は不潔なのでドーナツが汚れて迷惑だ。お前だけのドーナツでは無い」とは、なかなか言えない点で店は不利。客の連れの男性も現れ「なんだコラ」と参戦する。


僕も含め、店内の人達はすっかり黙ってしまう。イモやクリやカボチャのドーナツを楽しんで食べる雰囲気では無い。
そして皆が、それぞれの携帯端末でそれぞれの属するWebサービスに、こっそり状況を送信している。とても現代的である。
僕に何が出来るだろうか、と考える。そして不自然に伸びをしてみたけれど、嫌な膠着状態は1ミリも動かない。というか誰も気づいてくれない。咳払いもしたし、じっと睨んでもみた。効果無し。
そういった緊張の数分間の後に店長が出現して、よくわからない笑顔とノウハウを駆使して、誰も犠牲にならずに我儘な2人(とシーズー)を追い払った。


店長は「この仕事辞めたい(笑)」と店員に呟く。「まあ、よくある事だけれど」みたいな事も言う。
それは困る、と僕は焦る。この田舎町でこの店が無くなったら、ドーナツ文化の灯が消える。
なにしろ田舎なので、ドーナツの供給は1店舗による寡占状態なのだ。山を越えればクリスピー・クリーム・ドーナツがあるが、遠い。
書店の万引きも同じだと思うが、わりと簡単に、ちょっとした悪意や無関心で、大切で便利な色々は壊れてしまう、そんな危うい世界だと僕は認識している。



あまり無いことだが、そして無意味だとは思うが、コーヒーをお代わりした時に「さっきは大変でしたね」と声をかけてみた。「ええまあ、ありがとうございます」と店長。
今もぼんやりと「すっかりつまらなくなった寂しい世界で「あの時どうして何もできなかったのだろう」と考えるだけの後悔だらけの未来」を想像している。
ヒーロー願望は無いが、それにしても腰が引けている。








創られた伝統 (文化人類学叢書)

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