謎めく世界とシャチハタ忌避について思うこと。

 



現在のSTRIDA。ボトルホルダーは便利だが邪魔。
市役所に行き、書類を提出し、手続きを完了させた。
それ自体はとても簡単。創意工夫のいらない単純作業。役所の人達は、記入漏れがあっても怒ったりはしない。とても優しい。



カウンターに座ると、まず「書類を用意しますので、こちらを読んでいて下さい」と、ビニールコーティングされたA4の紙を渡される。市役所での手続きに関する基本ルールのマニュアル。
一見して「あまり詳しくない人が、それなりの時間をかけて、ExcelかWordを駆使して作った書類」とわかる。体裁からしExcelだろう、と推測する。
一般の商業出版物ではありえないレイアウトや文字組みで、余白にはクリップアートやWebサイトから持ってきたであろうキャラクター画像(権利関係は大丈夫だろうか)が散りばめられている。
色と矢印が氾濫していて、マニュアルとしてはとても読みづらい。この紙、無くてもいいんじゃないか、と残念な気分にさせられる。誤字もあるし、改行や段組みにはルールが無い。
ここ数年、役所でもこういう手作り書類が増えた。少しでも行政に親しみを感じて欲しい、そして痒いところに手が届く工夫を最前線の人間がしていかなければ、というムーブメントがあるらしい。
しかし厳しい言い方をすると、おしなべて質が低い。本当に必要な取り組みならば、もう少しだけコストをかけて(例えばデザイン会社に発注して)読みやすいものを作るべきだと思う。
活字化して文字飾りを駆使すれば誰もが喜ぶクオリティが得られる訳ではないし、仕事中に作るものはサークル活動や自由研究では無い。あるいはこれが、経費削減の中での精一杯なのかもしれないが。



そのビニールコーティング・マニュアルには「シャチハタネーム印は禁止です」と書かれている。市役所はなぜか、ネーム印だけを忌避する。
おそらく大昔に不具合があって(シャチハタ由来の大惨禍があったのかもしれない)、シャチハタは禁止という決定がなされたのではないだろうか。
そしてマニュアルには「国道のほうに5分歩けば100円ショップがあって、三文判が買えます」と書かれている。オートシェイプを駆使した地図も載っている。
つまり、誤ってシャチハタネーム印を持ってきた人への便宜を図ってくれているのだ。



これは変だ。特定の店舗を地方行政の一部門が勧めていいのか、という問題は別としてもおかしい。
三文判がOKで、シャチハタがNGな理由がわからない。
かつて「シャチハタは印鑑ではありません。スタンプです」と言っていた人(上司)がいた。印鑑とスタンプを別のカテゴリに分けて疑問を抱かない人は、どこに着目しているのか、未だにわからない。
こういう人に「どう違うのですか」と聞いてみても無駄なのだ。「だって違うだろう。全然違う」と言われた。「常識として違う」と。それ以上聞くと怒られそうな雰囲気があった。
シャチハタネーム印は、スポンジ状のゴムにインクを染み込ませてある大量生産品。強いて言えば個人が気軽に(例えばカッターナイフで)改変できる。印影にばらつきが無い程度には強度が保たれている。
三文判もまた、工場で大量生産される、名前の刻まれたスタンプだ。人造石でもプラスチックでも、簡単に改変できるのはシャチハタと変わらない。



ここで改めて、捺印の機能について考えてみる。契約書のサインと同じで「自分の意思で書類を完成させたこと」を示し、さらに「それがオリジナルである」点も求められる。
手彫りの印鑑ならともかく、工業製品化された時点で、一種の形式としてしか機能していないのが実情だと思う。もはやシャチハタだろうが三文判だろうが違いは無い。



しかし市役所で不用意にシャチハタを見せると、すかさず「シャチハタは駄目です」と言われる。僕の「手続き用品ポーチ」からぽろりとシャチハタネーム印が転がり出た時も言われた。
そしてもちろん「一般的な苗字ですね。大丈夫、すぐ近くに100円ショップが(略)」と教えてくれた。
漫画に出てくるお役人のような傲慢さや、「これで100円ショップの客が増えるぜ」といった陰謀は感じさせない、親切心にあふれたアドバイス
特に書類作成をしていない、申請の待ち時間であっても指摘されてしまう。三文判でも銀行印でもいいから、シャチハタ以外の印鑑を見せると許してもらえる。ほっとしているようにも見える。
不思議な事に、拇印は市役所では認められない。この前、たぶん駄目だろうなあと思いながら手ぶらで(病院の帰りに)寄ってみた時に教えてくれた。その時も100円ショップの場所を教えてくれた。
もちろん運転免許証も駄目(これは市役所職員の友人に聞いた)。コピーでも貼り付ければ良さそうなものだが、そこまでの柔軟性は市役所には無い。



祖父の友人にして静岡県篆刻界の重鎮だった老人は「銀行印でも何でも印影さえあればそっくりコピー品は作れる。創造性の無いつまらない作業だが、ある程度の腕さえあれば誰でもできる」と言っていた。
そして何らかのトラブルで印鑑を紛失した企業や個人の登録印を、頼まれて「作り直して」いた。「印鑑登録ってのは面倒だからね」と笑う。
今思うと、どう考えても違法行為だ。昭和の終わり頃といえども牧歌的すぎる。でも名士として、勲章や名誉称号をたくさん持っていて、見た目は善良な文化人だった。
僕だって作ろうと思えば三文判の複製くらいできる。シリコンと樹脂を東急ハンズで買ってくればいい。筆跡を真似たり、身分証を偽造することの何倍も楽だ。



長くなったが、つまるところ「三文判云々にこだわる時代はもう過ぎた」と僕は考える。印鑑が工業製品になった時に、「印鑑の意義」を考えなおすべきだった。
今からだって考えなおしても遅くはない。何のための決まり事か考えるのも市役所職員の大切な仕事だと思う。少なくとも、マニュアルに100円ショップの場所を記すよりも意義深い。
「そもそも論」は、特にルーチンワークには大切な視点だと思うのだ。機械には(今のところ)難しい仕事の1つ。
あるいは全く別の、僕の想像の至らないところで(例えば朱肉の朱肉性に意義がある等)このルールは維持されるべきなのかもしれない。
ちなみにゆうちょ銀行ではシャチハタでも口座が作れる。「なくさないで下さいね。紛失した時に買い換えて対応しないで下さい」と言われるだけ。
ふと思ったが、シャチハタ社が「1つの苗字につき数種類の印」を用意し、ランダムに販売すれば「日常生活では十分なオリジナル性」が保てるのではないか。
余談だが、市役所職員は印鑑付きボールペン(ネームペン)を使っている。市民側と職員側では印鑑の意味合いが違う可能性はある。よくわからない。



単純に、市長や相談窓口や目安箱に問い合わせれば万事解決、かもしれない。その一言が、捺印欄がチェックボックスかサイン欄に変わる、素敵な世界への第一歩という可能性もある。
しかし実のところそれほどの情熱も無く、そして問い合わせは僕にとって最も苦手な作業であり、ただこうしてブログに書き綴る程度の疑問である事も確かなのだ。
そういうレベルの「小さな謎」は多い。




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