素数の日はアンダーグランド・アイスクリーム・パーラーへ。

 
今日は23日、素数の日。もしやと思ってアンダーグランド・アイスクリーム・パーラーへ行ってみたところ、祝日だというのに開店していた。
ここでは仮に「アンダーグランド・アイスクリーム・パーラー」と書くけれど、店名は無い。看板もショップカードも無い。ウェブサイトはあるが、そこにも店の案内は無い。
僕の持つ会員カードには、単に「prime number」とレーザー刻印されているが、これも店の名前では無くて、「素数の日だけ入店可能」という意味だ。裏には会員ナンバーが書かれている。



お店は、静岡の繁華街から少し外れた、水商売の街との境目あたりの地下にある。レストランの裏口にしては小奇麗な、しかし普通は通り過ぎてしまう目立たなビルの地下1階。
ドアの横に、会員カードと同じアルミニウム製のプレートがセットされている。何も書いていないが、このプレートがある時だけお店は開いている。



ドアノブの横のキーボードで暗証番号を入れると、かちりとロックが解除される。
入ると細長い廊下があって、全体に暗い。右手側に小さなカウンターと21インチモニターくらいの開口部がある。
カウンターにはメニュー表が1枚。12種類のフレーバーが、それぞれの色の円と最小限の日本語で書かれている。
ピスタチオならグリーンの円に「ピスタチオ」とカタカナ、ラズベリーは赤の円と「ラズベリー」いった感じ。抽象的な名前や、凝った組み合わせは見た事がない。「ティラミス味」といったフレーバーも無い。
その単純明快な円を指でとんとんと叩き、また別の円の上でとんとんと叩く。メニュー用紙の一番下にある逆三角形は「コーン」で、丸は「ガラスボウル」。それも指で示す。
最後に会員カードを出せば、注文が完了する。手だけがすっと出てきてカードを回収する。口で注文しても通じる筈だけれど、まだ試した事は無い。
指を2回タップすれば「大サイズ」で、1回だけ「とん」とすれば「小サイズ」のアイスになる。他にもいくつかのハンドサインがあるらしいが、使わないので忘れてしまった。



あっという間にアイスは出てくる。コーンで注文すると、ステンレス製のアイスクリーム立てに入れられ、別に小皿とスプーンが付く。カードもこの時に手元に戻る。
今日はピスタチオとラムレーズンという定番の二段重ねにした。
3つ以上の注文の場合は自動的にボウル入りになる(ウエハースも付く)。
ごくごく控えめに、フレーバーに合ったトッピングが乗せてある。今日はピンクペッパーと、砕いたラム酒漬けの氷砂糖。
コーンは既成品のワッフルコーンを、焦げる寸前まで焼き直したもの。フルーツ系のフレーバーの場合だけ、薄くアーモンドオイルの風味が付く。



このアイスクリームを持って、さらに奥へ向かう。
ワンルームのアパートくらいの、地下にしては広い空間に、一人がけのソファが6つと、テーブルが置かれている。
ソファは素材や縫製からして高価なものだとわかる。しかし近代美術館に収蔵されるような、デザインが目立つ品ではない。わりと使い込まれた感じがして、親しみやすい。
部屋の隅には小さな棚がある。冷水のポットとコップ、紙ナプキン(木箱に入っているが、たぶんキムワイプ)と小さなおしぼりタオルがある。
なぜかサイトーウッドのペントレイも置かれているが、どういう使い途なのかはさっぱりわからない。
他には壁にカレンダーがあるくらい。細いサンセリフ体で日付が書かれた素っ気ないもの。休日は赤、土曜日は青の文字。
このカレンダーは、メニューと共通のデザインがされている様子。店のオリジナルだろう。ハイエンドなインクジェットプリンタで上質な紙に印刷されている。粒状感からエプソン製と推測するが、機種までは判別できない。



適当なソファに座り、壁のカレンダーでも眺めながら黙々とアイスクリームを食べる。音楽も、それから空調機器の音はしない。冷凍機のコンプレッサー音も無い。徹底的に静かである。
味はもちろん美味しい。おかわりをしたくなる様な、もう十分な様な、不思議なバランスで食べ終える。きちんとした材料で作られた事だけはわかる。
1人はいるであろうスタッフの物音も、飲食店には必ずある水回りの雰囲気も、一切が消されている。でも、完全な無人区画の冷たさは感じない。緊張を強いられないタイプの静寂が守られている。
フローリングに細かく空いたハイヒールの跡からすると、昔はお酒を飲むお店だったのかもしれない。全体がモダンでクリーンなスタイルの中で、たぶんわざと床だけ残していあるのだと思う。
食べ終えたら、そのまま店を出る。完全に無言のまま全てが終わる。ドアを閉めると、その日は再来店できない。



僕はまだ、この店で他の客を見たことが無い。
元々の客数が少ないのだろうし、おそらく「素数」以外のパターンでのみ入店できるメンバーがいる。偶数や奇数の人達は恵まれているから、プレミアムメンバーなのかもしれない。
しかし万が一、店で顔を合わせても、お互いに会釈だけして、その後は自分のアイスクリームに没頭すると思う。
極めて個人的なアイスクリームパーラーなのだ。





会計は毎月15日締めで集計され、メールで知らされる。そこに記されたリンクをクリックすれば、インターネット決済のサイトでクレジットカード払いができる。
メールアドレス以外の情報は全く登録していない。名前も生年月日もお店側は知らない。つまりこの店は、完全なツケ払いの信用商売をしている。
例外なく会員だけが使用し、その会員になるには基本的に誰かの会員証を受け継ぐしか術が無い。僕は年配の知人(定年退職後に四国へ引っ越してしまった)から引き継いだ。
カードを引き継ぐ時に、いちおう「秘密の誓い」めいたアドバイスを受けたが、これが全員の共通認識なのかすら教えてもらえなかった。たぶん彼も全貌を知らないのだろう。
ウェブサイトでは会員番号とメールアドレスの紐付けを変更するページと、月替りのメニュー紹介と、定休日の案内しか載っていない。地図も住所も電話番号も公開していない。
トップページはGoogleYahoo!の検索にはかからないように出来ているし、トップページに移動するにはそこから透明gif画像のボタンを押す必要がある。



僕自身がそうだが、他の会員もきっと、1人で来てゆっくり1人で食べて、さっさと帰ると思う。
ソファは座り心地が良いが、アイスを食べながら読書はできないし、なんとなく「食べる為だけの空間」という認識であり、それがマナーだと思っている。
縦のつながりも横のつながりも無い、徹底的に個人的にアイスクリームを食べたい人達が集うシステムができている。
傲慢かもしれないけれど、そういう価値観の人達だけが入場を許される場所なのだと考える。
この閉鎖的な楽園が、一体誰の発案で誕生し、そして運営されているのかはわからない。しかし秘密性の一端は、各人の暗黙のルール「1人で楽しむ」で維持されている。それだけは確かだ。



この種の会員制飲食店にしては破格に安い。サーティワンアイスクリームよりは高価だけれど、観光地のホテルで食べるバニラアイスよりも価格は安い。経営を心配してしまう程。
ここで食べるアイスに慣れると、ショッピングモールで「県内初上陸アメリカで大人気のフローズンスイーツ」という看板を見ても、それほど食べたいとは思えなくなる。
それから、普段は滅多にアイスを買わなくなる。特にコンビニエンスストアハーゲンダッツを買わない。手には取るが「もう少し我慢して、素数の日にあのアイスを食べよう」と考えて、購入には至らない。



静岡県の経済の50%は、こういった「会員制紳士クラブ」あるいは「秘密結社」で回っていると噂される。実態は誰にもわからない。
30代にもなれば、誰もが何処かの秘密組織に属す。親から引き継ぐものもあれば、社会人になってから、あるいは土地の繋がりで加入する組織もある。なかなか面倒ではあるが、避けられない。
その良し悪しは別として、「世の中に落ち着いてアイスクリームを食べられる紳士淑女のお店があってもいいじゃないか」と僕は思う。
サーティワンアイスクリームは否定しないが、いつも中高生に混じって蛍光色のアイスを食べたくはない。特別な日の秘密のおやつに、地下室のアイスクリームはふさわしい。







...そんな夢想をしながら、いつもの「マリアサンク」で、紅茶とケーキを食べていた。
紅茶は久しぶりのアールグレイ。温かい紅茶が美味しい季節になった。
今日は「栗のミルクレープ」を選んだ。ミルクレープは滅多に食べない。好き嫌いの問題ではなくて、優先順位としてミルクレープはリストの後ろにある。
しかしマリアサンクの栗のミルクレープは別だ。このお店は、ケーキは基本的に万人向けの高い水準だが、栗のケーキだけがラム酒を多く使った別方向の味付けをしていて、それが実に好ましい。
涼しくて明るい休日に栗のスイーツを食べていると、秋の到来を実感する。良い季節になった。
栗のミルクレープ。秋の味。











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