広まったり反射したり。そして今は概ね、落ち着いている。


病に伏した友人がいて、8月の中頃から病状がみるみるうちに悪化し、しかしその病故のきわどい面白エピソードや写真を沢山送ってくれていた。
大変な時もあっただろうに、そういう時こそ冗談を駆使しようと試みる、それはとても羨ましい彼の資質だと思っている。人によっては腹を立てるかもしれない。でも僕は、愛すべき個性と捉えている。
幸い、今は落ち着いている。
「死ぬかと思った」と言う。笑う余裕が無いのに「おばあちゃんが川の向こうで手を振っていた」と言う。そして寝込む。






その友人から届いた写真と、その写真に至るまでのエピソードもまた、悪趣味と可笑しみが入り混じった、「つぶやくに値する」話題だと思えた。
それは後に後悔を呼ぶのだが、とにかく「Twitterで公開しても良いか」を聞き、「是非つぶやいてくれたまえ」という返答を経て、140文字足らずの小文としてつぶやいた



初めは、見覚えのある、僕がフォローしている人達(顔も素性も知らないが、とても興味深い、趣味の良い人達に思える)が「Favorite」や「リツイート」をしてくれた。
なるほど笑って欲しい人には通じるものだなあ、といつもの様に思う。インターネットの素敵な側面を感じる。
そのうち今までにないスピードでリツイートされ、拡散されていった。
それはもう、スマートフォンの通知領域がツイッターアプリのアイコンで埋まり、通知音が止まらないほど。すぐに設定を変え、どうしたものかと考える。
そして、僕のTwitter歴で例をみない数の、色々な意見が伝わってくる。これがすごく、僕には堪えた。気分的にも辛かったが、フィジカルな方面(具体的に言うとお腹が痛くなった)にも効いた。
これはなかなか大変だぞと、iMacの前で(職場で貰った)チョコレートを食べながら思う。昨日までの自分の行動、気軽にリツイートしていた事を後悔したりもする。
いつの間にか2ch界隈に転載され、そして「まとめサイト」に掲載され、情報は拡散し続ける。
ふと我にかえって、自分が液晶画面をにらみつつ、ハートのミルクチョコレートをばりばり食べているという寒々しい状況に気づく。サイコパスじみた光景。どう見ても不健康だ。
それで少し落ち着き、1つずつ可能な限り返答をしていく。



一番多かったのは「私もor私の知人も同じ病や境遇で苦労しました」という、共感を伝える言葉。
こういうつぶやきは、ほぼ全て、具体的かつ限定された範囲を記述してある。実際的ともいえる。
いきなり社会問題化したり、攻撃的になるつぶやきはまず無い。なので返答もやりやすい。
「友人はこういう状態です。こういう問題を抱えて、今後はこうしていきたいです。僕はこう思います」と、こちらも具体的に書ける。
好意的ではない意見も多々あるが、それも返答に詰まるような事は無かった。頭は使うが、気持ちとしては平穏。



次に多かったそれが、とても心身に堪えた。
単純明快に「社会では通用しません」とか「不適合者です」と断じられる。「世間では許されない。甘えです」も多い。
僕は思うのだが、140字足らずの文章に画像を添えて、そこから全て(その文章に登場した人達の足掻きや工夫そして間違い)が伝わるはずがないのだ。
当たり前だが、皆がそれなりに何かを抱えて、良し悪しは別として上手く回そうとしたのに焦げ付いてしまった訳だし、そうでなければ「話の種」としての価値も無い。
そして何より、彼らも含めて「世間or社会」ではないか。
それを「甘えです。間違った弱者です」と断じるのは、街で見かけた派手で香水臭い女性に「おいアバズレ!」といきなり声をかけるようなものだろう。乱暴だと思う。
しかしそれを伝えるのはとても難しい。相手の信念に、強い主張に異議を唱えてしまう可能性もある。
「そんな事言っても、こっちだって大変だったんだよ。そんなに単純な話じゃないんだよ」と、140字で伝えようとすると、それだけで疲れてしまう。
とはいえこれは、ある種の社会的にセンシティブな話題として病を扱った僕に否がある。
別の知人に泣き事を言ったところ「つまり冗談の才能が無いのだ。君は」と言われた。その通りだろう。




他にも、単なるヘイトスピーチもあった。とはいえTwitterの界隈では、ヘイトスピーチ専門の人は一貫してその姿勢を取っていて、しかもプロフィール欄にその旨書かれている事がほとんどなので、わかりやすい。
心置きなく放置できる。もし返答を期待していたのなら申し訳ないのだけれど、たぶん大丈夫だろう。



なにしろ140字なので、誤読や誤解や「ちょっと意味がわからない」という意見もある。
これは頑張って答える。ほとんどの人が「なるほど」と返答してくれる。言葉が足りなくて、申し訳無いと反省する。
それなりに思惑はあったとはいえ、全体としては冗談の類だと思ってつぶやいた。そういうものに補足説明するのは、実に恥ずべき事だと思う。素人が浅はかな事をした、と後悔した。






そこで僕は思う。ほとんど弱音なのだが、ここに書いておく。
せめて他人の人格を否定するような直接的な表現は、しかもたった1つの文章で判断したような主張は、穴を掘ってそこに叫んでほしい。あるいは自分の仲間内で話し合ってもらいたい。
身も蓋もない風に言うと「@ユーザー名」を外せばいい。そうすれば伝わらない。
文句を言いたい気分もわかる。自分だってそういう時はある。社会への不満もある。プロフィール欄や過去の発言から「そう思うのも仕方ないかも」と思える立場や経歴の人も多かった。
しかしそれでも、というか「お前は弱者だ。怠け者だ」と言えるだけの元気があるのならば、せめてそれを、語り得なかった部分への想像と、赤の他人への気遣いへと振り向けてほしい。そう願う。
「知らぬもの同士の遠慮のないやりとり」は、そうやって育んだほうが、たぶん幸せになれる。
何も140字で判断した相手に、ストリートファイトを仕掛ける事はあるまい。それは容易に、言葉の通り魔となる。




こういう発想は、頭でっかちで理想肌の、サヨク的な夢物語かもしれない。そんな匂いは、たしかに感じる。
でも、「適者生存」がいつの間にか「強者生存」とすり替わるような、間違った進化論的価値観の声が大きいのならば、僕はこの「腰抜けの左寄り」の方向に(注意深く)当て舵を切る。
繰り返すけれども、強いものが生き残るべきなのではなくて、適したものが結果として生き残っていくのだ。そしてそれを選別するのは、特定の誰かではない。
それほど単純なら、誰も苦労しない。最適解なんて見つかっていないし、掲げる旗だって多種多様なのだから。





余談だが、ブログや近況4コマ漫画を書いている有名人のコメント欄も酷いものである。
「風邪をひいた」とか「不摂生をした」と書くだけで、それはもう辛辣なコメントが寄せられる。「中国料理を食べた」なんて書けば非国民である。
あれも見たくはない風景の1つだ。でも、ついつい読んでしまう。読んだ後に後悔するのだけれど。
どんな道具であっても、便利さが人間の一部を拡張する。たまに思ってもみない部分を強調してしまう。彼らの書き込みを見るたびに、インターネットの便利さを実感する。









代替医療のトリック」が文庫化して「代替医療解剖」になっていた。
友人から「サイモン・シンは原著で読むと楽しい」と勧められたけれど、僕にそこまでの英語力は無い。全然無い。だから文庫化して外でちびちび読める事は祝ぐべき事件である。
代替医療解剖 (新潮文庫)

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