発端は朝のチャイム。はいはいと玄関を開けると、見知らぬ子供2人がいた。おそらく兄弟で、上は5年か4年生、下の子は低学年だろう。
上の子はプラスチック製の水槽を持っている。中には数匹の金魚と水。
泣いた後のような顔と声で「あのお、金魚を貰ってくれませんか」と言う。びっくりした。捨て猫ならともかく、金魚の引き受けなんて初めて。
金魚を飼うことはできる。甥がお祭で貰ってきたものを、預かって飼っていた。
だから飼育する道具は揃っているけれど、今月の猛暑でまとめて死なせてしまった事もあって、積極的に飼う気分ではない。
第一、知らない家に「引き取ってくれ」というのも乱暴な気がする。ベルマーク運動ではないのだから、簡単な話ではない。
というわけで、「悪いけれど、うちでは飼えない」と伝える。
外を見ると、父親らしき人が、道路からこちらを見ている。会釈をするが、反応は無い。子供を見守っている様子。
そして子供達は、隣の家へ向かっていった。
庭にいた父に、どこの子供達か聞いてみる。町内会に携わっている父も、知らない家族だと言う。
そうなると遠くから各家を回っているのだろうか。大変だなあ、と思っただけで、この事は忘れた。ツイッターにはつぶやいた。
昼過ぎに、また彼らがやってきた。
玄関で、上の子が口上を述べる。
「朝は言い方が悪かったので言い直します」と始まり、夏祭りの金魚すくいで入手した金魚であること、面倒を見るという約束を違えて餌やりを忘れたこと、だからもう飼う資格が無いこと、そういう話を一気に伝える。
これは自分たちの意思であり、外にいる父親の強制ではない、ということも言い添える。そして「ごめんなさい」と謝られた。時間を割いてしまってすまない、という事らしい。
下の子は黙っている。疲れて、集中力が切れているように見える。
全体として、ずいぶん気の毒な雰囲気。子供なりに考えてはみるものの事は進まず、親は怖いし外は暑いし、誰かに謝って済む問題でもないし、もういっぱいいっぱいといった感じが伝わってくる。僕もそういう経験はある。
とりあえず手が痛そう。ずっとプラケースのふちを掴んで、胸の高さまで掲げているのだ。それを置いてもらう。
冷蔵庫からミネラルウォーター(500mL)を2本出して渡す。ちょっと外の父親の事を考えたが、2本しか無いから仕方がない。そして一口、飲んでもらう。水槽の水を少し入れ替える。
どうしようか、と少し考える。でも飼わない。また「悪いけれど...」と断る。上の子は水槽を持ち、下の子がミネラルウォーターのボトルを持ち、外に出て行く。
同情で金魚を飼ってもいいじゃないか、と考える。大した手間ではない。嫌になったら川に放てば終わり。
そういう考え事をしていたら、外で声がする。
「どうして話を聞いてもらえないか、よく考えたらどうだ」「俺に謝ってどうするよ」「お前達の問題だろう」そんな大人の声。怒鳴っている訳ではないけれど、優しくもない。
ひやっとする。テレビで見た、スパルタ式の営業マン教育や啓発セミナーを連想する。ドメスティックバイオレンス、という言葉も浮かぶ。
気になるので、玄関を開けて郵便受けをチェックするついでといった感じて、父親のほうをじろじろ見る。父親はこちらをほとんど見ない。
何か言わなければ、でも怖いし弱ったなあ、と考えながら不自然に郵便受けと車庫の辺りを歩く。
そこで、向かいの家から声がした。向かいのおばさんの、ものすごく大きな声。「金魚の子ね。私とお父さんとお話させてね。暑いでしょう。中へどうぞ」と言っている。
父親は「いえわたくしは結構です」と拒むが「大人の私が、あなたと話したいの」とおばさんは譲らない。すごくかっこいい。
そして親子3人、おばさんの家に入っていった。
おばさんは、たぶん金魚は引き取らないと思う。猫や犬を飼っている。産まれたばかりのお孫さんもいる。夕方見た時にも、金魚鉢や水槽は庭に無かった。
しかし何らかの進展なり解決はあったのではないか、と想像する。少なくとも、子供達は麦茶でも飲んで、涼しい部屋で一息つけただろう。問題解決への意思を、おばさんは持っていた。
どうも僕は、この種の「家庭における教育問題」に弱い。腰が引けてしまう。
愛玩動物と人間との関わり、といった局地的なテーマならば自分なりの意見もあるし、必要なら議論もする。
別にトラウマ等がある訳ではない。きっと「これは家族の問題ですから」と言われてしまうと反論できない、それが怖いのだと思う。
僕は子供がいない(さらに言うと独身)ので、「子育て論」について知り得ぬ部分が必ずある。「なってみないと、こればっかりは。ねえ」と言われた事もあるし、実際そうだと思う。
「この人大丈夫かな」と思っていた友人が、きちんとパパやママになっていくのを何度も見ている。
その友人達は「アウトサイダーとしての意見は大切だよ」と言ってくれるし、自分でもそういう立ち位置を重要だと思うし、わりと楽しんですらいる。
でもやっぱり、稀に、今日のような時に、上手く振る舞えない。「まっとうな大人の人」に物申すには、特別な勇気がいる。
「典型的・多数派である事に特別な意味は無い。親であることも、親でないことも、何かであることもそうでないことも、フラットに評価していこう」と普段から心がけているつもりだが、理屈通りに脳と心が動かない時がある。
オルタナティブである事の限界、未経験者の引け目は、厳然として存在する。
「どうしようもない心の闇」とまではいかないまでも、感情とは厄介なものである。
今になって思えば、知らない家族の教育問題を他所の家に丸投げするなんて、そもそもずるい気がしてならない。
全然「まっとうな大人」ではない。
いい迷惑である。凹んだり、ぐるぐる考えたのが馬鹿みたいだ。
子供達のペットは家族のペットでもあるわけで、もちろん地域住民として子供の相手をするにやぶさかではないけれども、金魚を他人に託すのに親が出てこないというのは失礼ではないか。
いやもちろん「それも含めて教育です。我が家の方針です」となったら僕も黙りこんでしまいそう。そして、後で子供達が怒られそうな気もする。それは怖い。
そして何より、こういう冷静な指摘は、後にならないとできないのだ。
そういう色々はともかく、おやつに「マリアサンク」で食べたレモンタルトは、とびきり酸っぱくて、実に美味しかった。静岡市まで行った甲斐があった。
何か特別なレモンを使っているに違いない。しかしどう特別なのかはわからない。
今日はアイスティーを飲んだ。周りのお客さんもみんなアイスティーを飲んでいた。なにしろ蒸し暑い日だった。