静岡の街に出かける。
街を歩く人の数が少ない気がする。みんなお盆休みで遠くに行っているのか、暑いから出歩かないのか。
自転車を走らせている時はそれほど汗はかかない。交差点で止まると辛い。
先月に買った帽子が活躍している。
「マリアサンク」の夏の定番である「いちじくのタルト」を食べる。
今年最初の「いちじくのタルト」。子供の頃は、それほど好きではなかったいちじくだが、今は大好き。特に、上手にケーキに組み込まれると、とても美味しい。
マリアサンクのそれは、シンプルなつくりながら味は豪華な感じがする。下のクリームが特別なのかもしれない。
昨日のニュース「飛行機に預けたチワワが熱中症で死ぬ 全日空「過失ない」に賛否両論」がちょっと気になって、Twitterなどを検索してみた。
いちばん多いつぶやきは「私もチワワを飼っているから気持ちはわかります。他人事とは思えない。ご冥福をお祈りします。全日空は許せない」といったもの。
多くはチワワの飼い主さんへの返信という形。これが本当に目立つ。
不謹慎ながらも、これには考えさせられるものがある。今も、もやっと考えてしまう。
死別の情報があると「ご冥福をお祈りします」と送ってしまう人はTwitterには多い。全然知らない人にもご冥福を祈る。
それはまあ、僕だってTVニュースで交通死亡事故などがあると「気の毒だなあ」とは思う。しかし、自分でもよくわかっていない「冥福」という概念を赤の他人には祈らない。信心が足りないのかもしれない。
そして、「私もチワワを飼っているから気持ちはわかります」と言うけれど、簡単に「わかります」なんて言ってしまって良いものだろうか。
そういう事を言い出すと、チワワを飼っていない全日空側が心ない対応をするのも当然とは考えられないだろうか(極論)。
それに、「それを言い出すとキリがない」という点で、あまりフェアな言葉でもない。
問題は想像力であって、もちろんチワワを飼っていればそれが補強にはなるだろうが、家族との別れというのは「なってみないとわからない」ことの筆頭だと思うのだ。
それでも誰もが想像し、共感する。
さらに言うと、この悲しんでいる年若き愛犬家に、せっかくの赤の他人がニュースで知って(それなりの義憤を持って)かける言葉が「うんわかる悲しいね許せないね」とは、逆に薄情ではないかとすら思えてしまう。
なにしろ、ペットが死んだのだ。航空会社が謝罪しても、いくら賠償金を積んでも、哀しみは癒せない。共感と同意なんて、家族や友人に任せれば良いし、「祭り」にしたら変な風に長引きそうだ。
飼い主のところに延々と届く「私も同じ気持ちです」は、果たして有効に機能するだろうか。
それに、ざっと見た限りでは、「ではみんなで全日空に働きかけをしよう」「こういう事故を減らすには」みたいな議論は少なくて、つぶやいた同じ日に、同じ人が、もう別の話題で盛り上がっている。
僕も生き物の輸送に携わったことがある。あれは本当に大変なものだ。
小型犬を空輸するというのは、例えは悪いが車椅子生活の障害者を貨物室で運ぶくらいの覚悟と準備で自己防衛したほうがいい。無理そうなら諦める選択肢もある。
きっと飼い主側、航空会社側双方に瑕疵はあった。避けられない不運もあったのかもしれない。
飼い主の「リスクについての十分な説明が無かった。知っていれば準備していた」も、会社側の「同意書にサインしたから過失は無い」も、どちらも単純にうなずけない。
もちろん「金を取っているんだからきちんと届けろ」という意見(わりと多い)も、そんなに単純なものじゃないだろうと思う。
哀しみを共有した赤の他人がするべきは、再発防止の為の試行錯誤だと思う。謝罪も賠償も、その為の布石でしかないし、家族がそう望まないのなら他人がとやかく言う性質の話でもない。
死んだ家族は戻ってこない。そしてチワワは大切な家族であっても、人間ではない。
こうして色んな情報や感情を短い文字数で伝える時代にどっぷり浸かった僕達が「赤の他人とのコミュニケーション」をするにあたって、考えることはたくさんある。
もちろん、全然気にしなかったり、このままで良いんじゃないかと思うのも自由だ。しかし「他人事とは思えない」とつぶやく人間が何も動かないのは、どういう事なのかと思ってしまう。
結局のところ、最初に飼い主が「拡散してください」とつぶやいたのが、「筋が悪かった」のかなあ、とも考えている。
周りの人に、何かしらの行動(同情、助言、企業への働きかけ等々)を望むのなら具体的に書いたほうが効果的であり、ただ哀しみを綴るのにTwitterでの「拡散」は良い手段では無い、そんな気がしている。
先日、古本屋で手に入れた大昔の推理小説が、抜群につまらなかった。
半分くらい読んだところで、仕掛けが想像できて、それからは舞台となっているバブル期の描写を目で追うくらいしか愉しみがない。
そして最後の1章になって、ミステリとしての仕掛けが明かされる。
唐突に、今まで苗字だけで書かれていた「韮山さん(電話でのみ登場)」が、氏名で呼ばれ始めて「実は韮山は2人いたのです。声は偶然似ていました。年格好もだいたい同じ」となる。
解説に「映像化不能の超絶トリック」とあるが、確かにこれは、映像にしたら陳腐だと思う。
叙述トリック、というのだろうか。なにしろ「韮山さん」に関する部分だけ描写が不親切なので、その不自然さで仕掛けがわかってしまった。
どうも自分は、ミステリのミステリ部分を楽しめない。たまに読むならかまわないのだが、パズルを解いているような感じがする。
たぶん、ストーリーや会話や描写での感動を、読書には求めているのだろう。あるいは知識。
たまには普段と違うものを、と過去のベストセラー(100円)を手にとったのが間違いだった。
文体が軽いというか、妙にすらすら読めたのは良かったのだけれど。速読、と言っても過言ではないくらいに速く読めた。