大きな蕪のはなし

週の初めに、蕪の根と葉の部分を切り離した。
根の部分はその日のうちに食べてしまったが、葉は冷蔵庫に忘れ去られてしおれてしまった。
朝のうちに水を入れたコップに挿しておいたところ、ようやく元気になってきたので、今から火を通してしまうことにする。

蕪や大根の葉などは、気が付いた時に“惣菜化”しなければ、いつのまにか生ゴミになってしまう。
常備菜の欠乏と生ゴミの増大は、自炊生活の天敵だ。数分の手間で、ずいぶんと台所がすっきりする。

今日は刻んで湯通しした後、生姜の微塵切りを加えて胡麻油と塩、酢で調味した。
生よりはいくらか日持ちするし、さっぱりした箸休めになる。

少しの手間で、明日からの食生活に彩りが生まれる。
こういう一品があるだけで、食卓が豊かに見えるから不思議だ。

 

 

蕪といえば、子供の頃に読んだ「おおきなかぶ」という絵本を思い出す。
ロシア辺りの有名な昔話。
おじいさんが独力で抜けなかった巨大な蕪を、おばあさんや他の皆の協力で収穫したお話だったと記憶している。

小さな頃は、このお話が少しだけ(ほんの少しだけ)怖かった。
おじいさんをおばあさんが引っ張って、おばあさんを・・・と順繰りに引っ張るとしたら、蕪を持つおじいさんの負担はいかほどだっただろうか。それを想像すると、何だか腰の辺りがむずむずして、怖くなってしまったのだ。
せめて、沢山ある葉を、各々が個別に引っ張れば良いのに、と子供心に思っていた。
おじいさんを加勢するのが、彼よりも非力な人員だったのが救いだった。

例えば、村一番の力持ちが手伝っていたらどうだろう。
おじいさんの腰椎は深刻なダメージを受けていた筈だ。

今思えば、それほど大きく、迫力のある絵本だったのだろう。
当時、叔父が腰痛で倒れたのを間近で見ていたのも、こんな発想をした原因かもしれない。

 


あの頃は僕も可愛かったはずだ。少なくとも現在の何十倍も素敵な思考回路を持っていた(はずだ)。
ナントカ聖マリア保育園(てんし組)の頃の話だ。可愛くなければ不自然だろう。

しかし、ふと思い出すのは、こんな変なエピソードだけ。
もっと“可愛げ”のある思い出が欲しいと、蕪の葉を刻みながら思った。

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