占いはフィクションかノンフィクションか?

大道芸ワールドカップin静岡」は、今日は行かなかった。

知らないうちに知人が亡くなっていて、その葬式というかお別れ会に行ってきた。

それほど親しい間柄ではない。
成人してから疎遠になった親戚よりは近況を知っている程度の付き合いか。最後に会ったのは5年前。
たまたま共通の友人がいて、今日のお別れ会もその友人に誘われた(送迎兼友人代表)のだった。

 

新編 新宗教と巨大建築 (ちくま学芸文庫)

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老舗のキリスト教新興宗教の家で、葬儀もその宗教に則っている。とはいえ、ぱっと見た感じはカトリックのそれと同じ。司祭なのか司教なのか知らないが、立派なガウンを着た老人が儀式を行い、スピーチをする。

そのスピーチが、ちょっと興味深い内容だった。
「祈りとは、フィクションなのかノンフィクションなのか?」という問いかけ。
「信じる者にとってはノンフィクションで、そうでないものにはフィクション、という“答え”を禁じ手にして考えてみてください」という。

たまたま、僕は半年ほど前から、似たようなことをぼんやり考えていたのだった。

「占いは、フィクションかノンフィクションか?」

僕は別に神様や信仰について思い悩んでいたわけではない。
もっと身近なもの、つまり知り合い(女性がほとんど)が、カジュアルに「占い」というものを活用していることに関して、あれはどういう心境と世界観を持って臨んでいるのだろうか、と考えて、上手い答えが見つからなかったのだ。

もちろん「信じる者にとっては真実」なのだろうが、それにしても彼ら彼女らは、日常生活との整合性は気にしないのか。
都合の良い時だけ、つまり「辛い時、悩める時にだけ採用」するスタイルだとしたら、普段の真剣さからズレているし、それで後悔しないのかなと心配になる。

まあ、僕だってアウトドア・ブランドの歴史ある素材の誕生秘話やその素晴らしさなどは、特別な検証なしに有り難がっているわけだ。
盛り塩だろうが占いだろうがオーラ診断だろうが(あるいは懐かしい動物占いだろうが)、ただ盛り上がり、気が済んで、得をした気分になれば、何に基づいているのかなんて気にしないまま、生きて死ぬのが大多数の処世術なのだと思う。みんな“物語”を抱えて生きるのだ、と村上春樹も書いている。

と、こんなふうに、ぼんやり考えていても、特に教訓も何も無い考察しかできない。僕がきちんと自分の意見を打ち立てるにはその方面の教養が足りない、もっと言うと興味だって足りないのだと思う。
しかし面白い問いかけではある、と考える。「なぜ面白いのか?」をきちんと説明できた時にこそ、それなりの回答が生まれる気もしている。ほとんど予感みたいなものだけれど。

 

そんなわけで、とにかく葬儀に少しだけ参列して、花を渡し、ご家族に挨拶をしてきた。
悲しくはない。悲しむほど交流があったわけではない。
でも、さすがに、街に繰り出して、大道芸を思う存分楽しむのも変な感じで、仕方がないから友人と食事をして、それから帰宅した。

家ではずっと、レザークラフトや、年賀状の下書きや、冬のアウターの手入れや、読書をしていた。

ずいぶん雑に趣味の作業を進めたため、部屋がびっくりするほど散らかってしまった。
今ようやく、部屋の整理が一段落した。今からお風呂に入って、寝ます。

 

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明日はきちんと「大道芸ワールドカップin静岡」に行く。ちょっとだけ鼻風邪気味なのが心配だが、きっと大丈夫。