「そんなんじゃ回らない」のならば、止めるか、あるいは“そんなん”を変えるしか無いのでは。

今日は、ちょっとつまらない話を。

 

仲間内で、なあなあで済ませる、というのは組織や社会の欠かせない機能だと、心から思う。僕もそういう領域をできるだけ増やそうと思っているくらいだ。

でも、それは絶対の正義ではない。
きちんとルールを守る人、守ろうと願う人がいたのなら、その人を非難してはならない。

制限速度の2割増しで走るのが“常識”の道路で、制限速度以下で安全運転をしている車がいても、クラクションを鳴らしてはいけないし、嫌がらせをしてはならない。例え遅いほうが危険だとしても。

相容れない自由意志が衝突する、もっと簡単に言うと「常識が異なる他者」が集まって何かをする、という時にこそルールは力を発揮する。それは普段の大多数が得るものよりも少ないかもしれないけれど、でもより多くの人間が“自由”を達成するための力だ。

先ほどの制限速度の話は、いささか理想主義的かもしれない。しかし不満があるのならば、その苛つきは制限速度を変える方向に動くべきであり、たくさんの人の当たり前で、そうでない人(例えば他県ナンバーの余所者)を押さえ込むのは、正しいか否か、という観点では正しくない。
少なくとも、コンプライアンス云々、と普段から唱えている集団だとしたら、嘘つきになる。

 

 

 

具体的に書くと問題があるから書けないのだけれど、だからぼやけた例え話でしか書けないのだが、概ね上に書いたようなことを上司との面談で話してきた。
ほんのちょっと具体的に書くと、労働法の遵守を、もう少ししっかりして欲しい、せめて「これくらいうちでは当たり前」で意見要望を却下しないで欲しい、と伝えたのだ。そういう指摘をする新人を悪く言わないで欲しい、という話が発端だったか。
「君は堅いな。休憩したければすればいいし、残業だってきっちりつければいい、たった数分のことじゃないか。任意参加のイベントは休んでもいいんだよ」と上司は言う。「そりゃあ変わり者扱いされるかもしれないし、仕事の効率だって落ちるから、みんな嫌がるかもしれないけれどね」とも。
しかしまあ、変わり者と言われても構わないけれども、それぞれ1日に数分から数十分のそれを(あるいは定時後の“親睦を深める”イベントを)、堂々と社会のルールと自分の希望通りにやっていくのは、なかなかに胆力が要るものなのだ。
そんな力を使うくらいならば、同調圧力に逆らわず、正しさよりも組織の常識に従う、それが会社組織の下位に居るものの弱さであり、だからこその意見具申だとわかって欲しかったのだ。
法律違反の指摘や改善案を「これくらいは社会人として常識」で却下する人達の前で我を通せるほどに、僕は彼らを信用していない。
どうしてより大きなルールを守るのに、胆力を要求されるのか、という想いもある。

 

どうして今の時代、マイノリティの権利や考え方を“普通の人達”がわざわざ知ろうとするのか。それはこの、弱い側、少ない側の人間に寄り添いたい、せめて想像力だけでも身につけたい、と考えるからだと僕は捉えている。そして、その為の規範は、おそらく自分達自身をも守る。
僕達だって、場所や状況によっては、簡単にマイノリティになる。転職や転勤をしていると、それがよくわかる。もっと言うと、転勤ひとつで、そういう想像ができるようになるのだけれど、残念ながら僕の今の勤め先は、ほとんど転勤というものが無いのだ。

今すぐ、という訳ではない。
ただし近いうちに転職をしようと考えている。
いや、前からそれは延々と悩んでいたわけだが、こりゃあ具体的に動かないと身が持たないぞ、と思えた夜だったのでした。

 

 

 

 

ブラック部活動 子どもと先生の苦しみに向き合う

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