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魚の目、鶏の足

わしらは怪しい探険隊 (角川文庫)

昼休みに「どうしても食べられないものと、想像力」についての話題となった。
簡単に書くと、いつも一緒に社員食堂で集まるメンバーの1人が、こういう事を言い出したのだ。

  1. 自分は鶏肉が食べられない。なぜならば、鶏の足や皮を連想するので。
  2. 自分は尾頭付きの魚も駄目だ。目がこちらを見ているようで怖い。
  3. このように、自分は想像力が豊かなのだ。子供の頃からよく褒められる。

なかなか強烈な意見だ。
そして、「それって想像力が貧しいのでは?」とも思う。
なにしろ仕事中の昼休みだから、さすがにそのまま言葉にはできない。かなりオブラートに包んだ、質問という形式で意思表明する。「牛や豚の肉は好きだよね?」とか。

僕はわりと平気だけれど、鳥類の足というのは、確かに気持ち悪いと思う人がいて当然だろう。鶏の皮だって、ぶつぶつ羽の跡があるし、なにやら白っぽい色合いと、ぬるっとした脂の感触は嫌かもしれない(例えば夜道で飛んできたら、逃げる)。そして鶏肉は、どうしてもそういう構造を引き継いだ形にならざるを得ない。ブロックから切りだす、というわけにはいかないサイズなのだ。

魚の目玉だって、「死んだ魚の目」なんて表現があるくらいだから、その嫌がる気持ちも想像できる。人とはやや違う、しかし全体的には同じ構造、というのもその嫌な感じを底支えしている。
目があれば脳もあるし、丸ごと死体を眺める、と考えたら、確かに切り身よりは強く何かを感じる。

でもやっぱり、だから「嫌」というのは、想像力の欠如だ。
想像というのは、そこから先まで考え、他の様々な物事との繋がりを踏まえて組み立てていく、もっと立体的なものだと考える。
例えば牛はどうか、植物はどうか、発酵食品は?
あれはいいけれどこれは駄目、の境界を悩まないのならば、厳しい言い方をすればそれは「子供の想像力」だ。牛や豚の目を想像できない人は、「人よりも想像力が優れている」なんて自称してはいけない。「そう思った」で済むのなら大脳は半分でいい。

言い換えると、「素直にそう思った」が正義な時代はもう(おそらく義務教育が修了した頃には)終わっているのだ。素直は善い特質だが、だから素直に発した言葉が善いかというと、また別の話となってしまう。

まあしかし、この人は見ているだけで発見が多い。
「学生時代の実習で、ダウン症の子の面倒を見た。彼らは例外なく、ピュアで、嘘が無い」とか「自分は味覚が鋭敏すぎる。だから、何にでもマヨネーズをかけてしまう」と語っている。初めは高度な冗談かと思った。
この人が“若者”であった時代には、「ピュアで無知で大人が眉をひそめるような存在こそ、実は真実を突く存在なのだ」というフィクションがもてはやされた。そう、あの懐かしい、渋谷のギャルやキャバクラ接客スタッフが持ち上げられた時代だ。考えるよりもキモチ!の時代。
そういえば「世界の中心で、愛をさけぶ」はあの時代に「永遠に語り継がれるマスターピース」と言われていたが、今あれを何度も観返す人はいるのだろうか。「KAGEROU」は何だったのだ。

多くの元若者が「あの“馬鹿になれ!知識なんて無駄だ”は、我々若者に向けたセールストークだった」と早い内に気付き、今に至る(しかし教養の軽視は強く根付いた)。でも、気持ちの良い甘言である事は確かであり、否定するには痛みを伴う。だからこそ、この人は今後もその路線で行くのだろう。
逆に茨の道ではないのかな、と僕などは思ってしまうし、実際に周囲とは軋轢というかばたばたを巻き起こしてもいるのだが、とにかく他人の人生である。

そして、傍で眺めている限りそれはそれで好ましいと思う。
時代に染まってしまった人、いつまでも若者であると勘違いしている人は、良し悪しとは別の、目を惹くものがある。
残念なことに、深い話、真剣な話をすると、ずいぶん言葉が軽い。でも、ランチタイムに話すだけならば、実に面白い。そういう人だって、もちろん大切な友人だ。

 

 

 

ピーナツバター作戦 (Seishinsha SF Series)

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