そこかしこに黒やグレーの染みがある企業

 

さあ、気ちがいになりなさい (異色作家短編集)

昨今、ニュースに取り上げられるような長時間残業やサービス残業はもちろん酷いことだけれど、ごく短時間の無賃金労働だって、減らせるものなら減らすべきだと思う。そういう発言を(具体例を挙げて)上司に提案したところ、まるで通じなくて困った。

例えば、始業時間の前に着席して、メールチェックや個人間の情報伝達程度は済ませることが今の勤め先では常識とされている。さらに最近は、朝一番の会議などは、始業開始時刻にその会議室に座っている必要がある。本来の業務時間、遅刻か否かの判定は更衣室への入室とされているのに、である。

実際には大した負担ではない。でも、道理には合わないと思う。

そういう話をすると、いつもこう言われる。
「始業前に準備を済ませておくのは社会人として当然のこと」
「君は今のやり方が嫌なのか」

大きな視点においては「これが社会である」と言う。そして、個人のレベルでは「嫌か嫌じゃないか」という問題にする。今日はもう、うんざりしたので(というのは、この小さな無賃労働時間に似た、他の問題提起も同じように差し戻されたので)、「自分は社会全体を知りっているわけではありませんが、できるだけルールに沿うべく工夫を続ける職場は多く見てきました。そのルールは職場の慣習よりは会社の決まり、それよりも法律に沿います。そして今、法を知りながら守らないことには負い目を感じています」と答える。
たまに勘違いしている人がいるけれど「みんなの常識だよ」は正誤の判定基準にはならない。そして、今は好き嫌いで発言しているわけではない。

「君の言う通りに労働法を守ったら、会社がまわらなくなる」とも言われた。「知らんがな回らないから違法って駄目じゃないか」とは、さすがに言わない。でもこういう言い方をする人は多い。本人は「現実主義」のつもりだろうが、僕は「現実追認主義」と名付けたい。
今の組織に愛着があるのならばともかく、そうでなければ擁護するのは怠慢だと思う。

こういう話になると、最後はほとんど同じ。
「じゃあ、君はきちんと守ればいい。誰も止めない、俺も止めない」
僕は思うのだが、「みんなが」とか「社会人の常識として」と言っている人の下で、そういう人が大多数を占める集団で、下っ端の人間が堂々と我が道を行けるだろうか。手に入るのが「正当さ」と「後ろに追いやられた細々とした業務」だったら、善悪よりも損得勘定で「今まで通り」を選んでしまう。だからこその問題提起なのに。
自分自身だけで決着がつくのならば、上司に提案などしない。

「そんなこと言って、君は一昨日、始業ぎりぎりに着席したじゃないか」とも言われた。
そういう指摘で相手を説得できると思っているのだから嫌になる。わざと議論のレベルを落とす、そんな技術なのかもしれないけれど、当然ながら「始業寸前云々」と「始業前に働くこと」に関係は無い。そもそも遅刻していないのならば…と話は長くなりそうなので、この辺で止めておく。

田舎ではよくある話だが、こと組織の違和感や不条理に対して「みんなは当たり前としている。あとは個人の自由意志」で済ませていると、辿り着く先はディストピアブラック企業だ。
大人になると、無意識に保身をするようになる。それはたぶん僕も同じ。せめて自戒としたい。

 

 

 

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