頼まれて作る時に。

パソコンで印刷物の類、例えばフライヤーやショップカードを作ることがある。元々、それが趣味であり、プロには及ばないものの、自分なりに「できること・できないこと」の区別がつく位の経験はある。

だから友人知人に、そういったものの制作を頼まれる機会がある。
注文を受けて、できるだけ希望に添ったものを作り上げられるのか、それが自分にとっての創作活動といえる。好きなお店のショップカードなどは、自分から提案する。「ごっこ遊び」なのだが、とにかく好きなのだ。

 

ところで今日は、職場の人に、ちょっとした画像制作を頼まれた。
バンド活動の記念品を作るために、いくつかの写真を組み合わせ、ロゴを添える、というもの。出力は、どこかの出力センターか、写真屋のサービスを利用する。

 

頼まれた時は嬉しかったし、頑張ろうとも思った。
が、今はちょっと、やる気が減衰している。

顔を合わせて会話をしている時は、それなりに「こんなアイデアがある」と話してくれた。なるほどそれならば僕のスキルが活用できる、と自分も考える。納期が決まり、おおまかな作業計画が立つ。

それがLINEでの打ち合わせになると、途端につまらなくなる。
「別にどんな感じでもいいです」
「綺麗にしてくれれば、かまいません」
そんな要望ともいえない言葉ばかり。印刷先も「安ければどこでも、おまかせします」となる。AとB、2つの見本を見せても、「どっちでも」となる。

なんだ単なる労働力か、と思ってしまう。
いや、有能な手足として活躍できれば本望なのだが、これでは僕のやる意味が無いではないか。センスを信じて、という事では無いのだと思う。ただ興味がほとんど無くて、思いつきを形にしたかったのだ。
適当にやるのならば、それこそMicrosoft Wordとインクジェットプリンターで、町内会のチラシ的なものを作ればいい。それなら、僕に頼まずとも出来る。

なんとなく、「絵を描くのが趣味の知り合いに、無料で絵を頼む人」を思わせる状況。そういう“報告”が、Twitterには溢れている。
要は想像力が無いのだ。自分には技術が無い、経験も無い、だから人に頼む。それは全然かまわない。全力で応えようと思う。ただそこで、頼まれた側が人間であること、有限の能力と時間を持つ存在であることは、ちょっと考えればわかる。

ちょっと考えればわかること、を蔑ろにされた時、人は疎外されたと感じる。
実作業としては20分もかからないであろう、土曜日にぱぱっと片付けるつもりの軽い作業ではあるが、でもそう思う。自戒を込めて、ここに書いておこうと思う。

 

さて、そのたった20分足らずのお仕事。普段ならばお金は貰わない類の作業。だが今回は、1000円くらいは請求するつもり。そのための嘘ならば、いくらでも思いつく。知識も想像力も無い相手には悪いけれども、そういう人間を騙すには、パソコン関係は実に容易。これは“僕”に頼むべき事柄ではなかった。業者に発注する種類のもの、だった。作業量の配分がどうあれ、一緒に作り上げるのならば無償だけれど(仲間や友達からはお金は取れない)、労働となると対価が必要だろう。

 

なんだか酷いことを書いてしまった。
が、たまには王様の耳について叫ぶ必要はあるし、このブログはその穴でもある。
ここまで書いているが、悪い人ではない。普段は楽しく話している。たぶん、僕が普段どういうものを好み、何を作っているのか知らないからこそ、ここまで雑なやりとりができるのだろう。それは僕の落ち度。でもそういう意味では、「パソコンで印刷物を作っている」程度の情報で、よく他人に頼めるものだ。知らない、というのは怖い。


ところで世間には、ほとんど何も考えずに言葉を発しているのではないか、という人間が意外と多い。TwitterやLINEなどは、その傾向を浮き彫りにしやすい気がしている。

例えば「今日は何が食べたい?」という問いかけに、正解は無い。「何でもいい。腹が減っているんだ」か「あれを作ってよ」か、「うーん、任せる」か、どれが正しいのかは決まっていない。でも、だからこそ、考えなければ。

 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

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