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ノーメディアデーとは、USBとは。

隣町に「ノーメディアデー」の幟が立ち並び始めた。「毎月8日はノーメディアデーで明るい家庭を実現!」とのこと。
なんとなく不穏な旗である。いよいよ田舎が自閉モードに切り替えたのか、と戦慄した(衰退がトレンドの町なのだ)。
が、調べてみたら何のことはない、「ゲームやタブレット、携帯電話などを止めて、家族の語らいの時間を作りましょう」という活動だった。それで明るい家庭が実現できるのかは多いに疑問だが、それはそうと、言葉の使い方が雑すぎる。

ノーメディアデー、直訳すると「媒体禁止日」か。
新聞やテレビだってメディアだ。書籍やDVDだってそう。全部をひっくるめて禁止したい訳じゃないだろうに。たぶん(デジタル関係に詳しくない人が)メディアといえばデジタルメディア、というか液晶画面に向かって情報のやりとりを行う昨今のけしからんもの全般を、そう呼ぶことにしたのだろう。
本来、こういう間違いは、周囲の人間が諭すべきだ。「あなたの認識は、世間とはずれていますよ」と。だってこれ、全国的な活動なのだから。広まったあとでも、誰かが指摘すれば良かった。活動の是非とはまるで関係無い部分なのだから、できるだけ正確な言葉を使えばいい。恥でもなんでもない。

こういう出鱈目を続けると、特に若い世代が困る。彼らはこれから社会に出るのだ。海外で働くかもしれないのだ。

 

そういえば、メディアで思い出した。
我が愛すべき職場には、「USBマスストレージデバイス」を「USB」と呼ぶ人が何人かいる。短縮形というよりも、あのスティック型でデータを納めることができる小型機器の名前が「ゆーえすびー」なのだと考えている。そうではない、と言っても、ぴんとこない。「だって、通じればいいじゃん」と。

 

日本人は「世間様」を信仰していると誰かが書いていた。
世間様といっても、もちろん確固とした定義があるわけではない、要は「自分基準」なのだが、ともかく世間の(みんなの)流れには従っておくべき、それが最善である、という考え方。「社会性」とは違う、規範のようなもの。
周囲の皆が「ノーメディアデー」に、あるいは「USB」に異を唱えなければ、それはもはや正しい言葉ということ、なのだろう。

これは実に気持ちの悪いこと。自分と周囲の人間に通じれば間違っていてもかまわない、そんな考え方は怖い。
僕は自分の想像力にさほどの自信を持っていないから、そんな意識で暮らしていたら、誰かを傷つけてしまう気がしてならない。仲間ではなく、村の外の誰かを。
そもそも、「みんな」や「仲間」以外の人間と働いたり、学んだりする時に、困るのではないか。いつも相手に、ほんの少しの“推測”を強いることになる。なんとも失礼な話だ。だから、今どき「写メ」なんて言葉を使う人は、どこか配慮が足りていないと見做されても仕方が無いだろう。
僕は頭の中の「世間様」より、社会や世界を見て暮らしたい。田舎とはいえ、色々な人が住んでいるし、自分以外は全て他人なのだから。
厳しい言い方になるが、「世間様」のルールから外れるよりも、もっと「みっともない」ことが現実には存在するのだ。

それに、特に外国語習得の際には、確実に混乱する。これは最も現実的な側面。日本人が英語を苦手とする原因のなかで、カタカナ語の多用と誤用は大きいのではないだろうか。多用はまあ、仕方が無い部分がある。が、間違った「カタカナへの変換」は、できるだけ早いうちに修正したほうが得だ。
英語教育が始まる前から「英語とカタカナの日本語は違う。例えるならば、結婚式場のチャペルと、教会のChapelくらいに違う。あ、ガッツポーズは日本語だよ」と教えておくべきだろう。

 

 

 

 

くらべる東西

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