現実はいつも想像を超えて

揶揄よりも実物のほうが凄い、という事態にしばしば出くわす。

 

いつも通勤時間に、高校生達が「朝練」をしている。十中八九、野球部だろう。
彼らのお揃いのジャンパーというかコートというか、防風性と防寒性に優れた外套の背中に「仲間だけが正義!!!!」と、筆っぽい字でプリントされていた。「正義」には「JUSTICE」のルビが重ねられている。

つい先日、「『みんな』じゃなければ『人』じゃない」という言葉を、Twitter経由で知った。田舎の若者を表す、良い揶揄だと僕は思う。
それを思い出す、強烈な「仲間だけが正義!!!!」という言葉。

こういう言葉をためらいなく受け入れる人達がいる限り、戦争は無くならない気がしてならない。「どうしてもわかり合えない他者であっても、お互いを尊重する道を探る」なんて発想は、「仲間がジャスティス」なんて言っている間は身につかないだろう。

そんなわけで、今日は仕事中に、その種の「ヤンキー的発想のキャッチフレーズ」が延々と頭に浮かんでしまった。精神衛生上良くない。

例えば、

「『普通』が『常識』で『論理』」

とか

「『共感』こそ『理解』だ」

といった言葉。

 

当然、あまり上手くは無い。
しかし帰り際、僕の身近な同僚では最も「ヤンキー性」が高い人が、こんな言葉を発していた。
「納得できれば正しい。腑に落ちないものは、単なる理屈」

なかなか言える台詞ではない。
少なくとも、「書店で雑誌の記事を撮影すること」に関しては、職場では言うべきではない、と僕は思う。「昔から写メなんてみんなやってる」とのこと。

僕はこの人から、常々、「みんな、とは雰囲気も考え方も違う」と言われている。たぶん仲は良いほうだが、確かに「みんな」カテゴリには入れられていない接し方をされているし、それでもお互いに楽しくやっている。
ただ、どうしても僕の側からは異文化交流じみてしまうし、相手はもちろん「意味わかんないし」で済まされてしまうので、なんというか不毛な感もある。

情報を売り物にしている商品の一部を勝手に複製したら駄目、っていうのは、単なる理屈だから却下しちゃっていいのかなあ、と思うのだけれど。そもそも僕には、「単なる理屈」は、自分の納得よりも価値がある場合がほとんどだ。

 

まあ、同僚の話はともかくとして、高校の運動部員が背中に背負うオリジナルプリントの趣味の悪さはここ10年間安定している。
あれを受け入れられないが為に好きだったハンドボール部を辞めた、と知人の姪が言っていた。これもまた現代の闇、なのだろうか。


「お揃いの服で高まる『仲間』意識なんて、ろくなもんじゃない」と、僕なら考える。世界は広く、多様性に満ちている。僕達の想像を超えている。

 

反社会学講座 (ちくま文庫)

反社会学講座 (ちくま文庫)

 

 

 

t_ka:diaryは、Amazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイトプログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。