ヨガ教室とソイミルク生活

昼休みを一緒に過ごす先輩社員に、最近はスマートフォンタブレットの使い方を教えている。
仕事中は僕が仕事を習い、休憩時間には逆に知識を伝える。別にギブアンドテイクというわけではないけれど、こういう交流は好きだ。無駄話とほとんど変わらないとしても、ぽつぽつと無難な受け答えをするよりも面白い。性別年齢趣味嗜好あらゆる点で異なる人だからこそ、この時間は貴重だと考えている。

 

面白い、といえば、この人はアプリケーションを“試し”に使う際に、いつも妙な内容を入力する。
例えばリマインダーやカレンダーの類に関しては、「ヨガ教室」とか「ハイスクールの友人達と夕食会:予約確認」といった“例文”を書き込む。
僕ならば「テスト01」とか、入力時の時刻のような無難な内容にする。あるいは「いぬ」「ねこ」「かえる」か、「醤油を買う」や「図書館に行く」のような文章や単語を、使用するだろう。

これは先輩が浮世離れしているというよりも(本当にローファットミルクを2L買っているのだとしたら申し訳ない)、スマートフォンのアプリ・ストアにある「紹介画像・動画」を真に受けてしまっているのだと想像している。スマホというのは、あるいはAndroidiOSを使った生活とは「そういうもの」だと考えているように見える。あの世界では、若くて溌剌とした地理的なユーザーは、たいていヨガ教室に通うことになっているのだから(サンフランシスコっぽい明るい日差しが印象的だ)。

どのようなアプリケーションがあって、操作方法はこんな感じで、そして何ができるのか、そういう事を伝えるのが僕の役目だと考えている。だから例文については指摘しない。
きちんと使いこなせば、もっと地に足の着いた内容になるだろう。Evernoteスヌーピーの名言を書き込むのも個人の自由ではあるにしても、実用的なツールとしてはそれだけでは勿体無い。まあ、他人のコンピュータデバイスがどう使われようと構わないのだが、でもなんだか「見てはならないものを見てしまった」感がある。

 

 

 

 

ところで、市内の画材屋兼文具屋の2階には、小さな画廊がある。
先日は地元の芸術愛好家サークル(9割が老人)の展覧会を開催していた。
初めての試みとして「パソコンを使った作品」がいくつかあって、どんなものだろうと見てみたのだが、これがもう大変にがっかりする代物だった。

ほぼ全てが、Windowsにプリインストールされている「ペイント」で作られている(『使用機材:ペイント』と書かれていたからたぶんあのペイントだろう)。マウスでぐるぐるっと描いた画像を、コピー用紙にインクジェットプリンターで(おそらくは“印刷品質:高速”で)印刷してある。
画材屋の画廊という会場だからか、きちんと額装されて並んでいた。

それだけならば、別にがっかりはしない。稚拙だとは思うけれど、それはまた別の話。どこかで見たような(90年代の初めころに見かけたような)抽象画めいた作品群は、「まあ最初はこうなるよね」と思わせて、独特の味わいがある。田舎の絵描きサークルならば、これくらいはよくあること。

では何が駄目か。作品の脇に貼られている「自己評」や「寸評」が酷いのだ。
「線がガタガタになってしまうところはコンピューター・グラフィックスの限界だ」とか「正方形が綺麗に描けない。人の手の素晴らしさを再認識」といった文章ばかり並ぶ。線がガタガタというのは解像度が足りないわけで、正方形についても単なる使用者の知識不足。
ここから「だからコンピューターは駄目だ」と結論付ける、その発想が、実に年寄り臭くて嫌なのだ。有り体に言って、世界が狭い。芸術の問題ではなくて、技術の話として、ちょっとこれはと思わせる文章だった。
「私にとっては、色数が少なすぎたため、自分の発想を妨げている。つまり、玩具では絵は描けないということだ」なんて、なかなか書けるものではない。

年寄りが年寄り臭くてもかまわない、という意見もあるだろう。でもこの展覧会は「度が過ぎている」と思うし、老いても幼くても、想像力は必要であり、それはアートに向けるだけでなく、そのアートを制作するためのツールにも振り分けて欲しいと、わりと切実に思う。
他人の芸術活動にけちをつけるわけではないが、あまりにつまらないものばかり見せられると、さすがに田舎暮らしが辛くなってしまうので。