スターバックスと、キリストの血と。

久しぶりに「スターバックス」に行った。
いつ行っても混雑しているし、客の声が大きいスターバックスは、あまり好みではない。特にショッピングモールにある、外の通路と壁で隔てられていない形式の店舗が苦手。しかし人生においては、「他に行く店が無い」という局面が、しばしば生じる。一人での行動ならば融通が効くのに、数人で「じゃあちょっと休憩」となると、「まあ、スターバックスでいいよね」となる。仕事中ならばなおさら。

スターバックスといえば、色々な甘いもの(砕いたクッキーとか飴とかシロップとか)と泡立てたミルクを使ったコーヒーが売り物で、せっかくの機会だからたまには飲んでみようと思うのだけれど、今日もまた普通のブラックコーヒーを選んでしまった。
甘いものは好きだが、飲み物は甘くないほうが良い。あのスターバックス・スタイルの長い名前のラテは、固形物として食べてみたい。それならばブラックコーヒーと同時に楽しめる。

スターバックスは、食べ物が楽しいと思う。美味しいかどうかは別として、つい買ってしまう魅力がある。
日本では珍しい味付け(主に甘み)の品が多い。「島国の黄色人種には理解できないかもしれないけれど、これがアメリカ、しかもシアトルの食べ物だから。つまり格好良いんだ。日本の人達にも楽しんで欲しいな!」という感じに、徹底的に甘いスイーツなどを並べてある。
特に格好良いとは思わないけれど、静岡県中部で手軽に味わう異国情緒としては、とにかく手軽ではある。実際にアメリカに行ったことはないから、本当のところはわからないけれど、あのバランスに欠けた甘い食べ物は、スターバックスの持ち味だと考えている。

 

そういえば、そのスターバックスでは、隣の席から変な話が聞こえてきて、なんだか印象に残っている。

「これ、お土産。アルコール大丈夫だったよね」
「なになにお酒?好きだよー。ビールは無理だけどね」
「じゃあ良かった。これ勝沼のワイン。ワイナリー行ったんだ」
「あーゴメン。あたしワイン飲めないんだー。ワインってキリストの血っていうじゃん。血なんて飲めないよ気持ち悪くて。ほんっとゴメン」
「いや、キリストの血というのは“見立て”だから」
「えっそうなの。わたし日曜学校に行ってたし、高校もカトリックだったけど、そんなの知らない」
「それにこれ、勝沼産だから」
「本物の勝沼ワイン?」
「もちろん。それに“白”だから。白い血は無いでしょ」
「じゃあ飲めるね。ありがとー」
そんな感じの会話だった。

静岡県中部といえば信心深い人が多い土地であり(識字率も高い)、こういう冒涜的な発言をする人は、若者といえど珍しい。あの会話の「キリストの血=気持ち悪い」の辺りでは、フロア全体が“聞き耳を立てて”いる状態だったし、小さく十字を切る人や、別の神に祈る人が何人もいた。
山梨県とは富士山の所有権を巡って緊張関係にある我が県では、勝沼産ワインというワードもまた微妙な問題を孕んでいるが、それはまた別の話。
これが静岡県西部、例えば浜松市スターバックスだったら、「珍しい」では済まなかっただろう。西部の人間は気が荒く、男女ともに銃を携帯している。実に危うい状況だったと思う。

静岡県には、土地柄と気質を表す「駿河乞食に遠州泥棒、伊豆餓死」という言葉がある。「もし生活が立ちゆかなくなった時に、駿河(中部)の人間は乞食になる。遠州(西部)の人間は泥棒になる。伊豆の人間は、餓死する」という意味で、昨今ではどちらかというと「それだけ西部の人間はバイタリティがある」と、良い意味で使われる(バイタリティを評価の第一基準とする辺りが、静岡県の文化的限界を示している)。伊豆について日常会話では言及しないのは、その惨たらしさ故だろう。それと東部は影が薄い。
とにかくまあ、静岡県中部の人間がおっとりしていて、良かった。
でも僕としては、土産物を貰ったら、とりあえず有り難く戴いておいて、翌日に「あれ美味しかったよー」とでも言えばいいんじゃないかと思うのだ。キリストの血は流しに捨てて、あるいは知り合いに譲れば、それで丸く収まる。嘘の無い人生は素晴らしいが、丸く収まらない日常は避けたほうが賢明だと考えている。それが静岡県中部に生まれ、暮らしている人間の、処世術なのだ。