ありがとうの反対語

Facebookにおける「シェアさせていただきました!」というコメントがたっぷりぶら下がった記事の8割くらいは「確かに良い話だが、根拠とする事象や情報は嘘」である点について書きたい。要は「ありがとうの反対語」系の話のこと。

今回は、例えば「笠地蔵」の話をノン・フィクションとして感動し、「なるほど!そうだったんですね!これからは善行をしよう!」と決意しちゃうような人の存在は、この際無視する。幼稚園ではなくてFacebookの話なので。

あの種の「いい話」を広める人達を観察していると、どうやら「目から鱗が落ちた。心にすっと入ってきた。つまりこれは正しい」と納得しているようだ。
いつの間に、人の心が「正しい情報の判別装置」になったのだろう。「好きだと思ったから正しい」と要約できるような行動指針をおおっぴらに振りかざすのは正直なところ悪趣味だと思うし、それならば道徳ではなく芸術の文脈で語ればいいのに。
「すごいですね。勉強になりました。シェアさせてください」なんてコメントする人のいう「勉強」というのは、単に価値観の根拠を外部に注文しているだけだ(記事を読んだ後、関連情報を漁り、熟考した可能性もあるだろうが、そういう人は記事の過ちに気付く筈)。
信じたい情報だけ取捨選択していった先に何があるのか。「奇跡のリンゴ」のような閉じたサークルにつきまとう不穏な空気は、差別や偏見のそれと、ほとんど同じだ。僕はそう考えている。

ところで「ありがとうの反対語が“当たり前”」を支持する人は、同時に「当たり前の世界に感謝」もまたすんなり受け入れそうで(そういう知人が2人いるのだ)、こうなると感謝の大安売りである。善意はインフレーションするのだろうか。

 

と、ここまでは難癖のひとつめ。
さらに難癖を重ねるならば「シェアくらいクールにワンクリックで済ませたら如何か」とは思う。謙譲も尊敬も人付き合いには大切な要素だけれど、見ず知らずの人が「自分の意見です。読んでください」と記事を書いているのだから、そして「シェア」ボタンを自分の意志で実装しているのだから、シェアという行為そのものが意思表示の行動になる。何かを伝えたいのならばもう少し具体的に感想を書いたほうが良いと思う。
コンピュータとネットワークの世界では、定型文は圧倒的に“安い”のだから。

 

 

 

ところでいま、この本を読んで、とてもとても京都に行きたい気分。
造本も凝っているし、情報量は多いとはいえないけれど(有名な店が多い)でも読み物として素晴らしい。

本の中の、京都。

本の中の、京都。

 

 

最近は静岡市近辺に面白い古本屋が増えてきて、小さいけれど1つのムーブメントになっていると思う。この本は綺麗にまとまっていて、しかも贔屓にしている店が出てくるので、それだけで嬉しい。

[静岡]本のある場所 (momo book)

[静岡]本のある場所 (momo book)