スケートは好きですか?

今日から来週にかけて、新人教育を担うことになった。
といっても仕事に関しては教えられるほどの能力も知識も無いので、一日の流れとか、安全上気をつける事とか、それからいちばん近いトイレは何処かといった、そういう“仕事をするうえで必要な細々とした知識”を伝える役割。自分にとっては、教育をしながらこの半年近くで学んできた事を整理する、良い機会となるだろう。上司からは、それも期待されての教育係なのだと思う。


新人は20代前半の男性。2ヶ月前に配属され、何度か部署を変えつつ、どの場所でも「ちょっとこの人は…」とたらい回しにされてきた人だと、噂では聞いている。大きなトラブルがあれば試用期間ということで解雇できるのだろうが、そこまでは駄目じゃない、らしい。本人も、「絶対に辞められない!」と、やる気があるそうだ。
実際の情報は、僕にまでは伝わってこない。上司は「まあ君なら出来るよ、たぶん。だって君は君だから」みたいな訳の分からない事を言うが、きっと僕に任せるくらいだから、「きっと駄目なんじゃないか」と考えているのだと推測する。でなければ、もっとベテランの人が教育者になる。
ほんのりと「おおっぴらにできない制約」の気配を感じる。偉い人の親近者だから辞めさせられない、みたいな何か。

でも仕事は仕事。人にものを教えるのは嫌いじゃないし、人手は全然足りていないのだから、新人は嬉しい。
とりあえず挨拶をして、説明をしながら一緒に職場を歩く。
「…と、こんな感じです。ここまでで質問は?」と聞いてみたら、「えーと、katoさんでしたっけ?スケートは好きですか?」と問われてしまった。
質問に質問で返すのは好きじゃないし、人に教えている時ならなおさら避けたいところ。でも思わず「なんでスケート?」と問い返してしまった。
「いやー。いいじゃないですか。スケート。速いし」という答え。
なんだかよくわからないので「まあいいや。その話は休憩時間にしよう。スケートやってるの?」と言ってみたのだが、「そんな!静岡県ってほとんどスケートリンク無いじゃないですか」と笑われてしまった。かといって学生時代に県外でスケートに親しんだとか、そういう訳でもないらしい。最近の静岡の若者は、冬場に仲間と連れ立って県外のスケートリンクに行ったりするのだろうか。僕が若い頃は、スキーやスノーボードが、その手のウインター・レジャーだった。
なんだかよくわからないけれど、それが最初の質問。
休憩時間には別の話をして、結局スケートに関しては有耶無耶になった。それで良かったのだと、今は思う。

それにしても、熱心にノートをとる人である。
機密保持の為に筆記用具や紙類の持ち込みが禁止されている場所でも、「絶対、書きたいんですけど」と言ってくる。
そのノートの使い方が、なんだかおかしい。笑ってはいけないのだろうけれど、しかし1ページを3つに区切って、「ピーク! 頂き:目指すべき地点」と「アタック・ポイント:見極めるライン」そして「ベースキャンプ:必要な地力」なんて項目に分けられていたら、やはり何か問いたくなるのが人情だろう。
どういう理由で「事務用品の備品庫の鍵の場所」が「アタック・ポイント」になるのか。「消火器の配置と非常時の集合場所」が「ピーク!」に含まれるのは、なかなか素敵だと思う。
ノートについて聞いてみると、これは自己啓発商材であり「なりたい自分になる」ための、意識の高い今の若者ならみんな使っているメソッドとのこと。後からEvernoteに取り込んで整理することで、脳の特別な部位に記憶が配置され、頂点を超えたその先へと人生を切り開く、正しい「一歩」となる。ノートはそのための、力強い“人間資産”を獲得するツール(あくまでツールですから、要は本人次第なんですよ、katoさん。わかりますか?)。
しかし仕事の情報をインターネット上にアップロードする行為は、厳禁とされている。「だってクラウドですよ、俺ら」とか言っているが、正直知った事かと思う(俺ら、って何なのだ)。

向上心溢れる元気な人だが、なんとも波長が合わないというか、苦手なタイプである。
ノリが良くて「これイイね!」って思えたら、躊躇なくアイスケースに入った写真を全世界に公開しそうな、そんな危うさがある。「あっ。『ワンピースで人生を学んだ若者』だ!」って思ってしまったのはさすがに偏見だろうが、でも言動のそこかしこにそれを感じるし、暗い理屈の世界を構築し閉じこもってきた僕は、“それ”に関してはことさら鋭敏なのだ。

そんな訳で、仕事の大まかな流れや、休憩時間の過ごし方や、ポケットに何を入れておけば仕事が捗るかといったアウトラインとTipsを伝えただけで、来週末くらいには「すいません。うちの部署ではちょっと無理です…悪い人じゃないんだけど」となりそうな予感がする。
なにしろ10人に満たない部署で、僕だって毎日が忙しい。この教育業務だって、通常業務に支障が出ないように、「進捗報告は口頭で行う。記録は月末にまとめて提出」という形式にしてもらったのだ。

初日から疲れた。たぶん表情に出ていたのだろう。上司が天津甘栗(静岡駅の売店で売っている有名な品)をくれた。
先ほどから食べ始めたが、剥くだけで嫌になってきた。甘栗の皮剥き、疲弊した心身には堪える類の重労働だと判明した(特に渋皮が残った時はつらい)。元気な時に甘栗の皮を剥いても全く問題ないのに、この“効きかた”は何なのだろう。人間資産が足りないのかもしれない。