小学校の同窓会

今日は同窓会に参加した。1学年にたった2クラスという小さな小学校の、卒業以来始めての同窓会。
もう何十年も会っていない旧友達と再会した。
まず顔を見て面影を見い出し、名札を見て確信し、再び顔をみて、そしていきなり、当時の渾名で呼び合う。ドラマか漫画のような話だが、それが実際に延々と続く。

自分でも忘れていた自分の渾名を思い出した。当時の子供達の力関係や流行、誰がどんんな人だったのか、どんどん記憶が蘇ってくる。その全てが懐かしい。

出発前に、念の為に卒業アルバムを引っ張りだして顔と名前の確認はしていた。でも何しろ小学生の写真である。中学生や高校生の写真ならば、現在の姿との関わりが見い出せたかもしれない。六年生は、あまりに幼い。だからたぶん役には立たないだろうなと思ったし、実際にほとんど無意味だった。
顔を見て、少し話す。あるいは遠くから眺める。それだけで、圧縮されていた記憶が展開されていく。脳は、そして人間の精神は不思議の塊である。

誰もがお互いを「変わってないなあ」と言う。僕だって言う。
本当は変わった部分のほうがはるかに多いのに、でも変わってないように見えるし、手に持っているのは酒やジンジャーエールなのに、まるで小学六年生のように話す。大人の話としての近況報告すら、あの頃の雑談のよう。

そういえば、先生の記憶力も凄かった。
顔を見て、名前を確認しただけで、「ああkatoくん。喘息は治った?お兄さんは元気?ご両親は電電公社で共働きだったよね」などと、すらすらと言葉が出てくる。
メモか何か、仕掛けがあるのかと聞いてみたところ、先生は「新米教師で頑張っていた時期だったから覚えているのだろう。しかしアルバムや名簿を眺めただけでは、全く思い出せない」と仰っていた。

 

たくさんの人の近況報告を聞き、つい人生について考えてしまう。
いろんな「もしも」があった。これ以上無いくらいに素晴らしい選択から、誰も望まない避けられぬ悲惨な岐路まで、誰もが紆余曲折を辿って、今に至る。どの道が正解かなんて分からない。
本当に色々な境遇に辿り着いた、あの時の小学六年生達が、しかし今日は笑って語り合っている。
様々な「もしも」の中で、この先生に教わって、あのクラスで一緒に学び遊んだことは、ほとんど掛け値なしに「素晴らしいこと」だったと(僕個人は)思う。いわゆる「人生をもう一度やり直すとしたら」と問われたら、とりあえず小学六年生は、あのクラスを選びたい。
僕の理系志向は、この先生の理科の授業が礎になっていると思うし、それは本当に感謝している。

 

柄にもなく、そんな事を考えながら、先ほど帰宅した。
亡くなった人もいるし、参加できない、したくない人もいただろう。それはそれとして、同窓会は、想像以上に素敵なイベントだった。
かつての親友が、今も彼らしく生きているとわかった事が、個人的には最も嬉しかった。頭が良くて性格が穏やかで、でもちょっと脆さと暗さがあった少年が、今日も基本的なところは変わらず、そして(一般的とはいえないにしろ)自分で選んだ道を進んでいる。

要は「変わってないなあ」ということだ。それに尽きる。

そんな彼ら彼女らと、明日から親友としての交流を開始するかというと、全くそんな風にはならないのだが、でも旧友は旧友であり、たぶん明日には多くの事を忘れているにしても、いつかまた再会する日と、そうでない日常のふとした瞬間に、有形無形の何かが蘇るのだろう。
とりあえず、次の同窓会(五年後くらいに開催予定)までは、生きなければ。先のことはわからないけれど、でもとりあえず。