安全と安心と神話と

駅前に、ずいぶん騒がしい人がいた。
「相次ぐ販売自粛。揺らぐ日本の安全神話。もはや安心なんて何処にもない。こんな日本に誰がした!」と、選挙カーの上から騒いでいる。白い手袋をはめて、マイクにも白い布で覆いがされている。取り巻きの人達は、お揃いのウインドブレーカー(蛍光色)を着て、にこやかに手を振っている。

要は選挙演説である。地元の食品工場でも異物混入問題があって、商品が回収された。そういう事情も含めた、時事ネタなのだと思う。

ふと、この候補者に対して「問題ない。加熱してあるし、良質なタンパク質が多い」って寄生獣のミギーっぽい口調で説明しながらゴキブリを口に放り込みたい欲求が生じたが、もちろん思っただけで実行はしない。僕にだって社会性は有るし、今日は加熱したゴキブリを持っていなかった。

彼がゴキブリを食べる必要は無いにせよ、この意見には、いくつかの点で納得できない点がある。
それほどまでに、販売自粛が続出しているのだろうか。たまたま数日間、新聞に見出しが並んだだけかもしれないし、あるいは社会の空気を読んだ(つまりは営業上の判断で)自粛した可能性もある。
そもそも、現代日本において、安心なんて、何処にも無いのだろうか。
特定の誰かが、日本を悪くしたのか。それは彼が当選すると、改善されるのか。
そして何より、「安全神話」とは、何なのだろうか。

 

以前の勤め先は、それはもう、徹底的に品質管理に厳しいところだった。製薬会社だから当然だろう。もうずいぶん前になるけれど、ある時、品質管理部門の長がした話を思い出す。

「我々は、『安全』は保証できる。『100%の安全』と言ったら嘘だけれど、『十分に安全』や『問題ないレベルで安全』は可能であり、それを目指すべきだ。それが品質管理、僕らの仕事。
しかし『安心』となると、話は別だ。
『安心』には限度が無い。なぜならば、それは人の心の問題でもあるからだ。さらに言うと、他人の心の問題だ。無限のコストをかけられるのならば達成できるのかもしれないが、会社も、そして社会にも、そんな余裕は無い。
果たして我々の客が、人間なのか神様なのかは、よく考えなければならない。
言い換えるのならば、『安全神話』なんて幻想なのだ。あれは『安心神話』と呼ぶべき概念だろう」

確か、こんな内容だった。
最後は「だから心を尽くして『安全』を追求し、発信せよ。人身御供で消耗するよりは、現実主義者の仲間を作れ」という話で終わったと記憶している。

 

その頃は「なるほど。実に理屈っぽい。品質管理部門のトップらしい意見だ。きっと腹に据えかねる出来事があったのだろう。医者や薬剤師が常に理性的とは限らないからなあ」くらいにしか思わなかった。

 

 

彼の言葉を思い出したのは、あの大震災と原発事故の後。安心と安全に、多くの国民が狂っていた。今だって変な影響を受けている人は少なくないし、僕も当時は不安だった。
この辺りは、書くと長くなるし、少し前に出版された文庫本「知ろうとすること。」が簡潔にまとめてあったので、おすすめです。安くて、薄くて、読みやすい本。

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

 

 僕が歳をとったからか、あるいは社会が変化したのか、よくわからないけれど「お客様は神様だろうが!」みたいな主張が、最近は増えた気がする。何でも思い通りになると勘違いしている大金持ちではなくて、普通の生活をしている庶民が、社会に対して、過大な「誠意」を期待する。

今日は書店で「嫌なのは困るんです。だって困るのは嫌だから」と言っている人がいた。本が面白いかどうかなんて、書店員に聞いたって仕方がないだろうに。カウンターに書かれた「本のことなら何でもお聞き下さい」という貼り紙は、もちろん書店員の万能性を保証するものでは無い。
どういうわけか、21世紀初頭の日本国において、100円ショップのみが、この無謬性を求められない。「まあ、100円ショップだからね。仕方がない」と、許してもらえる。この辺り、追求すると面白いかもしれない。

 

 

全証言 東芝クレーマー事件―「謝罪させた男」「企業側」 (小学館文庫)

全証言 東芝クレーマー事件―「謝罪させた男」「企業側」 (小学館文庫)

 

 



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